第6話 クレイジータクシー(前編)

2023年4月18日 0時10分


「ここがシンガポールか…テンション上がるな~」

もちろん嘘である。

僕は憔悴しながらも、えっちらおっちらと荷物を手に、やたら長い空港のホールを歩く。


ここはシンガポール チャンギ空港

1週あたり6,100便。100種類以上の航空会社が行き来しているという、シンガポール的に経済と密接なスポットである。


20年以上前、僕はここに来たことがあるらしい。

小学生の時に親に連れられて来た記憶はあれど、流石に昔過ぎてほとんど覚えていない。

思い出に残っているのは「当時マーライオンが水を吐いてなかった」「タクシー運転者がわざと遠回りして料金をボってた」「シンガポール動物園のナイトミュージアムに行ったら、なんも見えなかったけど気配はすごくて楽しかった」ということくらいだ。

ちなみに、まだその頃はガム禁止令が決まって数年しかたっておらず、大通り以外は結構汚れが残っていたのを覚えている。(ガム禁止令は1992年から)


さておき、チャンギ空港は成田空港と同じくとても清掃が行き届いており、かなり奇麗だった。

天井は白い板で他の空港と変わりないが、ホールの地面は白、茶、オレンジ、黄色などをあしらった、モザイク柄となっている。

案内看板は全て英語で書いてあり、日本語がほとんどない点から見て、異国に来たんだなと自覚し始めた。

深夜の為、ほとんどの売店はしまっていたが、ドラッグストア的な店と、化粧品店などはなぜか開いており、数人の観光客らしき影が真剣に値段表を見ている。


「あの、Xさん。トイレに行きたいんですけど」

「あ、じゃあ荷物見てますよ。僕も行きたいので先にどうぞ」


これには二重の意味があった。一つは胃の調子の問題で、すぐにでもトイレの個室に駆け込みたかったというのもあった。もう一つは当然、ゴールデンボールの状態を確認したいためである。

文字通りトイレへ駆け込んだ僕は、運よく空いていた個室に入り、ズボンを下す。


ボロン。


「うっわ…おっきぃ…」


当然、元気に腫れあがっていた。1.4倍というところか。

しかもこう…見てすぐわかるくらいには、右と左のバランスがおかしくなっていた。

少し触ってみると、熱い。

明らかに内部で炎症が起きているのがわかるが、恐ろしいことに痛みはほとんどなく、ただ体温が上がっていることと、腫れ特有の感触だけが感じられた。


色々と陰鬱になり、反比例するようにしぼんだ自分の息子を気にしつつも、ここに来た本来の目的を終わらせるために用を足す。ちなみに緊張して少し出が悪かったとだけ、ここに記す。


とはいえ、歩けないわけではない。

履いているズボンも、少し股下に余裕がある『ストレッチタイプ』のジーパンだったため、負荷は最低限に収められていた。ユニクロには頭が上がらない。

これは長時間のフライトに耐えるための対策ではあったのだが、是非似たような形で旅行をする方がいれば、緩めのズボンをおすすめする。


さておき、僕は上司Xと交代し、数分後に第一ターミナルTerminal1へと向かう。



Terminal1に行くと、まず電光掲示板に大きく、英語で書かれているフリーWi-Fiの文字が写っていた。

凄いことに、フリーなのにWi-Fi5である。

会社支給のポケットWi-Fiもあったが、通信料やバッテリーの問題を考えると、あまり使用したくないというのが正直なところだった。そのため、大変助かったのを覚えている。クーラーも良く利いており、まだ寒い日本よりも快適とすら思うほど安定していた。

出入り口に近づくと、上司はおもむろにスマートフォンを取り出し、WhatAppというチャットを開く。


「今回、このままマレーシアへ向かうので、国境を渡れるタクシーをGrabというアプリで会社に手配してもらったんですよ。」

「へぇ……?」


後で知ったのだが、Grabというのは東南アジアを代表する配車やタクシー、Uber Eats のようなランチデリバリー、食料品宅配などをすべて手配できる、有名なアプリということだけは分かった。が、このアプリを利用することは、当分ないかなと心で思う。


「タクシーなんですね。国境を渡るんですよね?」

「夜行バスとかもあるんですけどね。今回深夜の上に、行きにくい場所にあるホテルなので、タクシーにしてもらったんです。」

「料金とか大丈夫ですかね?」

「もちろん、前払いなので大丈夫ですよ。そのままタクシーに乗ればホテル前です」


正直、これ以上歩きたくない(というか歩けない)と思っていたので、すごくホッとしたのを覚えている。

ちなみにこう言ったところでタクシーを手配すると、日本で言うCメールを使うような感覚で、直接運転手からWhatAppにメッセージが来るため、英語ができればLINEでチャットするような感覚で細かい指示もできる。


荷物を置き、タクシーが来るのを待つ。Terminal1ということは事前に伝えていたので、そう待たないだろうという話だ。


「向こうも今ついたから、すぐ手前に行くって言ってますね。」

「ありがたい……」


そして15分が経った。


「来ませんね。」

「あ、通知が来ました。ええっと……あれ?」

「どうしました?」

「なんか、Terminal3にいるって言ってます」

「……………うん?は?」


チャンギ空港は第一から第三まで三つのTerminalが存在する。

事前に伝えたにもかかわらず、Terminalを大間違えしているようだ。


「いや現地人…」

「そういうことも……あるのかなぁ……」


二人とも疑問形だった。


しかし、これでは困る。

Terminal1から3へ移動するにしても、少なくとも800メートルは歩かなくてはならない。

これが正常な体だったら、「僕が行ってきますよ!」なんて言いながら先行もできたのだが、股間に自己主張が高いヤツがいるため、そう簡単な話ではない。

スカイトレイン(移動用のモノレール)という手もあるのだが、その為の移動をするというのは流石にナンセンスだろう。


「キツネさん、申し訳ないんですけど、外にそれらしいタクシーがないか見てもらえます」

「……うっす。」


下半身事情はあれど、目と鼻の先だ。

まぁ仕方ないかと自動ドアを潜り抜けて、Terminal1の外に出る。


「……うっわ」


すると、ものすごい湿気と熱が襲ってきた。

考えてみれば当然だが、シンガポールは赤道近くなのだ。

鼻腔に届くのは異国の香り。すなわち、少ししけった土と、微量の埃のような香りが、少し独特の海風の匂いと共にやってくる。


(これが、シンガポールか…)


幼い時の記憶が少しフラッシュバックした。

確かに、父の後ろを眺めながら、母と共にこの地を歩いたような気がする。


さておき、タクシーだ。


バスやタクシー、乗用車の姿は結構な数だったが、我々を待っているであろうタクシーの姿はどこにもない。

上司Xの話では、屋根にVIPという看板がついており、黒いバンで〇〇〇というナンバープレートらしい。


「いや、ほとんど黒いバンばかりじゃないか……」


眼を皿のようにして探すが、一向にそれらしい姿はない。

気温は恐らく30度前後。湿気は70を越えてはいただろう。

じんわりと体に汗が浮かび始め、長時間立っていたくはないと思う。

やはりそれらしい姿はないと思い、一度上司の元へと帰る。


「いないですね…」

「あ、ちょうど今、Terminal1へ向かうと言ってます」

「よ、よかった……」


―――13分待った。


「あ、キツネさん!あれだ!きっとあれですよ!」

「うあーーー!!」


疲れの為か、ややハイテンションになった僕と上司は、ようやくやってきたタクシーに歓喜する。

黒いバン。〇〇〇というナンバープレート。そして車上に輝くVIPの文字!


リムジンとは言えなくても、やはり一生に一度は、異国の地でVIPと書かれた車両には乗ってみたいと思うのが、庶民の俗な考えではないだろうか?

僕はそうだった。散々待たされたが、人間は間違いを犯す生き物である。

結局来てくれたのだから、あとは安心して身をシートに預ければいい。


そう思いながら、荷物を背負ってタクシーに近づく。

黒いバンはゆっくりと扉を開き、中からドライバーと思われる男が出てきた。


を入れ。の中、た、が、そこにいた。


「Hey、ミスターX?」

「あ、はい。いや、YES…」


上司は素で日本語で答え、あわてて英語で肯定する。


「You、FOX?」

「Y、YES…!」


僕も何とか答えた。

ビジュアルが、濃かった。

例えるなら、スラム街からやってきた半グレの舎弟が送迎にきた。そんな気分になった。無言でトランクを開けてくれ、荷物を置けとハンドサインで言ってくる。


「あの、これ、合法ですかね?」

「もちろん、大丈夫……ですよ、はは」


そこは嘘でも自信をもって肯定してほしかった。

大丈夫だよな…と、荷物を入れつつ、僕は先に中へと入る。


(入ってしまえば多分大丈夫だろう。もうどうにでもなれ。)

タマの問題など脳からすっ飛び、僕は自分に言い聞かせる。

やっと落ち着ける。

そう思って後部座席に座ると、さらにとんでもないことが起きた。


「…………Haaaa」


が、助手席に座っていたのだ。

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