第5話 空の上の養鶏場(後編)

飛行機で気圧が変動すると、味覚が薄まるという研究結果があるらしい。

機内食で出された、味のないとりそぼろ丼を胃に詰め込みながら、そんなことを思い出す。

不安があっても腹が減る。そして、物を食べる余裕だけはしっかりと残っていた。

というより、状況的に考えても囚人のそれだった。


時刻は日本時間で19時を過ぎ、やっと台湾上空くらいに差し掛かったところで、それはおきた。


隣に座るカップルとは別に、反対側にはテキサス系の白人らしき初老の男性がどっしりと座っていた。70は過ぎているだろうか。やたら濃いキャラクター性を出していたその男は、この2時間の旅の中で異様な奇行を連発していた。

その男は、10分に1回はマスクなしでくしゃみをし。あくびをするときはものすごい大声で叫び。通路にキャビンアテンダントが通るたびに呼び止め。かといってタブレットで映画を見ようとすれば、Bluetoothのイヤホンを付けているにもかかわらずペアリンクOFFで大音量で機内に響き渡らせていたのだ。


テキサスから来た、養鶏場のアナーキーバードAB

僕はそう心の中で呼称した。

もちろん、テキサス系に見えただけで、彼がテキサスから来たかどうかは全く確証はないし、単にイメージで言ってるに過ぎない。

だが、このトンデモフリーダムなABは、恐れることを知らないのか、さらに独自ルールを突っ走っていく。


恐らく、長時間の着席で足がむくんでいるのであろう。彼は着席ベルトを取り外して立ち上がると、はだしで通路に立ち、おもむろに足を広げた。


「Fuuuuuu!」


唐突に、ABはストレッチを開始した。


(おい、こいつ止まらねぇぞ!?)


これが、マレーシアへ行くということなのか。

と、僕のストレスは限界だった。

かといって、これが日本語の通じる相手だったら注意もしただろうが、僕は英語が喋れない。ただでさえ不安とストレスとタマの腫れで限界だったのだ。これ以上厄介ごとはご免だった。


もちろん、数分後に奇行に気づいたキャビンアテンダントは、ABに注意を入れる。

しぶしぶといった感じで着席するが、彼はそんなことではへこたれない。

1時間ごとに全く同じ行動をとり始めるので、もうモグラ叩きと変わらなかった。

流石に3回目のストレッチを始めたとき、隣のカップルもため息をついたのを覚えている。


つまるところ、ただ僕は耐えるしかなかった。



日本時間で22時に差し掛かった時、奇妙なことが起きた。

タマの違和感はあれど、一切不安がなくなったのだ。

異様に発汗していた肌は落ち着き、呼吸も安定してくる。


慣れたのか?

そう、思わざる得ないほどに僕の身体は安定してきていた。

恐らく、逃げ場がなくなった状況で多大なストレスを感じていた体が、脳へドーパミンを送り込み、一種のハイ状態。または混乱状態に陥っていたのではないかと思う。

こう分析すると、つくづく人体というのは面白い。いわゆる、戦争中ストレス過多になった兵士が、銃弾が飛び交う戦場で急に立ち上がったりする現象はこういうことなのではないかと思う。


とにかく、落ち着きを取り戻した僕は、機内の提供する映画を楽しむぐらいにはなっていた。このZIPAIRでは水一つですら機内販売だ。夕食で提供された備え付けの水以外は有料申請をクレジットカードから行う必要があり、キャッシュ対応すらない。その為、まだマレーシアに到着していないにもかかわらず、水は貴重となっていた。オフラインで楽しめるコンテンツを何かしら持ち込まない限り、時間をつぶすのは苦労することだろう。


恐ろしいことに、誇張なしでこれまでの話はノンフィクションである。

もちろん、これから記載する話も、ノンフィクションである。


なお、時間というのは不可逆であり、いつか終わりがやってくる。

日本時間24時10分。快適とは決して言えない空の旅も終わり、ついに僕はシンガポールに到着した。


もちろん、これで終わりではなかった。

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