第3話 フライト

何かがおかしい。

そう自覚し始めたとき、すでに退路はなかった。


2023年4月17日12時


覚悟を決め、当日。

約2時間半の移動を経て、僕は成田空港へと向かった。

勝手がわからずあたふたしながらも、無事にチェックインを済ませ、上司Xと合流。二人で大韓航空KALラウンジに入って、遅めのランチを胃に流し込んでいる途中のことだった。


「あの、Xさん…トイレってどこでしたっけ?」

「ああ、ラウンジ内にありますよ。奥の方みたいです」


昨日の夜から違和感を感じていた左側のゴールデンボールが、なんかおかしいのである。鈍痛が増したというか、異物感。つまり妙にのだ。

フライトが始まったら、トイレは混むだろう。僕は色々と考え込みながら、トイレへと駆け込む。


(嫌だなぁ…ロードバイクの時に何回かあったけど…やっぱり股間にあたらないサドルを買った方が良いかなぁ…)


帰国後、この辺りに詳しい幼馴染に聞いてみようと思いつつ、僕は念のため便座へと座り、ズボンを下す。

ため息をつきながらふと目線を下すと……に気づいてしまった。


…………


ゾクりと、背筋が凍る。

左、左だ。僕の大事な左の球が、なんか大きい。

恐る恐る手を触れてみる。

痛みはなく、赤くはれているわけでもない。

ただ、明らかにおかしいポイントがあった。

右のタマと違って、重さと固さがなんか違うのだ。


(打撲……か?)


頭の中に浮かんだのは、微妙にズレた回答アンサー

通常、日本の成人男性の睾丸のサイズは直径にして4cm~5cm程度。

だが、腫れたタマは、明らかに6cmはあった。


(おかしい、これはどうしたらいいのか…いや、しかしこれは、ブレの範囲内ではないだろうか?)


今思い返すと、僕はすでにこの時、引っ越しの疲れと、マレーシアに行くという不安で冷静な判断力が薄れていたのだと思う。

すでにチェックインをしてしまい、帰るわけにもいかないという部分から、自分自身で戻る選択肢を消してしまったのだ。


(痛みはない。発熱もない。恐らく打撲による炎症のはず…腫れならなるべく冷やすか安静にすれば改善するはず…痛み止めも薬箱に入れてあるし、大事にはならないはずだ)


こうして僕はぐるぐると不安を抱えながら、用をたしてトイレを出る。


ラウンジに戻ると、上司Xは忙しそうにパソコンを打ちながら、電話で深刻な話をしていた。どうやら、抱えている案件が大炎上しているらしく、本人はギリギリまで仕事に追われているようだ。

これでは、相談してもまともに取り合ってはもらえないだろう…。生きてくれ、と心で思う。

僕は気を紛らわすために、ラウンジ内にある無料のドーナッツとコーラを頬張りながら、腕時計の秒針を無意味に見つめる。


余裕。そう、余裕だ。

今までの病気もそうだったが、焦ってはいけない。無理に焦ってもいい事にはならないだろう。不安で過敏になっているだけだ。

そう考えながら、固く座り心地の悪い椅子に腰を掛ける。

大韓航空KALラウンジでは、珍しいことに電源のサービスができる場所が限られており、前席が充電できる環境ではない。その為、スマートフォンなどでバッテーリーを食うわけにもいかず、娯楽がほとんどない状態で、横にいる上司の唸り声をBGMにボーっとするしかなかった。

気を紛らわそうと、目の前の巨大スクリーンを見ると、ペンギン特集が放送されていた。

可愛いペンギンたち、だがそこには海のハンターたちと戦う、過酷な世界が待っていた! とかなんとか言っていた気がする。すでに疲れ果てていた心と体に、動物ドキュメンタリーは思いのほか染みた。



フライト時間が迫ってきて、いよいよ飛び立つ時間になってきた。

フライドデッキへ移動の際、それとなく上司に違和感を告げる。


「あの、キ…下半身がなんか痛くなってきていて…」

「え? ちょっとまってくださいね。えーっと〇〇の案件が…あ、はいなんでしたっけ?」

「下半身が痛くなってきているんです。足の付け根と言いますか、打って腫れているんだと思うんですが」

「そうですか。昔似たようなことあったので気持ちわかります。お大事にしてください。」

「うう…」

「あ、しまった。ゲート行く前に両替をしましょう。」

「そうか、両替」



ここでXに関して少し語ると、彼にはあまりにも余裕がない状態だった。

健康面からしても内蔵がやられてそうな生活をしており、特にここ何か月かは1日数時間しか眠れず、経営と企画振興を同時にやらないといけないという修羅場を抱えていた。自分がミスれば会社自体に影響が出るという問題もあったため、メンタル面で言えば彼もギリギリだったのだ。

後から聞いた話では、複数担当しているプロジェクトが少なくとも2件大炎上しており、1分1秒を争うくらいには切羽詰まっていたという状況のようだ。


僕の方も、別に全く歩けないわけではないというのもあって、この時は耐えるしかないという心境になっていた。


「今回はマレーシアに直接行くのではなく、まずシンガポールへ向かいます。その後、タクシーで移動して国境を越えるので、そこまで負担はないはずですよ」

「ああ…なら大丈夫かな…」


正直、徒歩での移動は空港くらいという状況は、非常に助かった。

後々にも書こうと思うが、移動の距離に比例してタマは腫れあがるという性質があるようで、結果的には悪化を軽減で来ていたのではないかと思う。

さておき、いよいよ僕は飛行機に乗り込み、不安を抱きながら日本を飛び立つことになる。

時刻は2023年4月17日17時


そして僕は、飛行機の中でも大きな問題にぶち当たる。

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