第2話 フライト前日・予兆
◆
2023年4月16日
メンタルクリニックで毎月、睡眠を改善する薬と、気分を落ち着ける処方がされる。
数年前、とある会社でパワハラを受けた僕は、一度重度の鬱になりかなり危険な状態になったが、一緒に寄り添ってくれた人たちのおかげでどうにか立ち直り、薬さえ飲んで眠れば普通に仕事ができるところまで回復してた。
その日もかかりつけの先生と対面し、僕はいつものように検診を受ける。
「どうですかキツネさん。眠れてます?」
「ええ、おかげさまでお薬さえ飲めば大丈夫です」
「先月いらっしゃったときは確か環境を変えるということで、お引っ越しですよね?」
「ええ、先週やっと終わりまして。やっと夢の2DKです。頑張って4年、お金を貯めたかいがありました!」
「リモート中心のご職業でしたもんね。隣の壁ドンを気にせず仕事ができる環境は今のキツネさんには精神的にも大きく影響すると思います。非常に頑張りましたね」
「ははは…一昨日は趣味のロードバイクにも乗れまして。久しぶりに20キロほど走れました。いい気分転換になりましたよ」
ゲーム業界にいたころは、貯金というものがほとんどできない生活が常に強いられ、切り詰めるものを切り詰めないと、安易に家電も買えないという日々だった。
だが、転職を機会にそれもやや改善され、僕はようやく一つの夢をかなえられたのだ。
「ではキツネさん、今月はやっと落ち着ける感じですかね? キツネさんはすぐ頑張ってしまおうと、無理に努力されてしまうので、なるべく今月の残りは休んでいただいた方が良いのですが…」
ドキリとする。
「それなんですが先生…実は今月、マレーシアに出張することになってしまいまして…」
「……………え?」
「それで、明日から1週間ほど飛ぶことに……」
「…………………………えっ、えっ、いつ決まったんです?」
「先月後半に突然……」
「拒否は…できなかったんですか?」
「話したんですが、すでに旅券も取ってしまったということで、断り切れず……」
「あぁ……キツネさんなら……そうなって……しまいますよね……お立場もアレですもんね……」
「はい……」
先生とはもう3年の付き合いで、僕がどんな感じの働き方をするのかは大体知っており、極力無理させないようにと気をもんでくれる非常に良い人だ。完全に否定するわけでもなく、制限もかけず、その人に会った形で寄り添ってくれる方なのだが、それもあってか非常に難しい判断をさせてしまうことが多い。
「いいですか、私が言えるのは決して無茶はしないでください。責任感が強すぎるからこそ、心配なんです。明日からというのは……正直驚きましたが、くれぐれも薬だけは飲むようにしてください。一人ではないんですよね?」
「ええ、上司と一緒なので、そこだけはなんとか」
「分かりました。念のため、お薬は少し増やします。睡眠に影響があったり、強いストレスを感じたら、絶対に量は減らさないようにしてくださいね」
「はい、ご苦労をかけます……」
「これから苦労するのは、むしろキツネさんの方ですね……無事に帰ってきてください……」
診療を終えて病院を出ると、外は土砂降りだった。
くぅん……と、ひと鳴き。心の中で捨てられた子犬のように鳴く。
その日は夕方から、荷物をまとめながら友人たちのゲーム実況生配信を眺める。
「ははは、みんな楽しそうだなぁ……」
正直、海外に出ること自体が不安だったが、もっともストレスだったのは、みんなとゲームができないことだった。
ずきり、と心が痛む。
だがこれも仕事なのだ。たった1週間。人生の経験はいつだって突然だ。何もせずに同じ日々を過ごすよりも、時には飛び込んで経験をした方が良いときがある。
自分に言い聞かせるようにそう唱え、日本最後の風呂に入る。
その時、少しだけ違和感を感じた。
「おかしいな……なんか、左のキ〇タマに違和感を感じる…」
湯船につかりながら、薄い鈍痛を感じる。痛みではなく、違和感。
とはいえ、一昨日乗ったロードバイクの影響だろうと判断する。
一般の自転車とは違い、ロードバイクは
その為、変な話……下半身を打つことが多く、久々に少し長く走ったせいだろうと流していた。
それが、そもそもの間違いだった。
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