第2話

 男からもたらされた唇の感触に、暉良は驚いた。

 だってそんな、まだ名前すらわからない相手とそういうことになるなんて、普通は誰も予想しない。

 だから本気で戸惑った。唇が離れた時も、ラッキーと思うより、彼がそんなことをしてくる理由がわからなさすぎて言葉が出なかった。もっとも、言葉自体通じないのだが。


 男は暉良が目を丸くしているのを見ると、もう一度顔を近づけ、唇を重ねてきた。少し触れて、ゆっくり離れては、また塞いで来る。

 暉良自身、男女どちらとも豊富に経験を積んで来たわけではないが、これは慣れてるやつだな、と直感した。

 その証拠に、最後の離れ際で男の舌が下唇に軽く触れて来た。これは明らかに誘っている。

 壁の向こうで聞こえる卑猥な音はまだ続いていて、倫理感はとうにない。

 そっちがその気ならと開き直り、暉良は男の首に腕を回して引き寄せた。

 すると、もう一度唇同士が触れる頃には、それまで保っていた初対面同士というしがらみは完全に吹き飛んでいた。

 男は怯む様子もなく、暉良を難なく受け入れてみせた。


「……っ、何なんだ……お前」


 暉良は思わず疑問をこぼしたが、自身の体は襲いたくてしょうがなくなっている。

 そういえば最近ヤッてない。家以外だと学校くらいしか場所の都合がつかないが、最近その学校すらもろくに行っていないからだ。

 久しぶりに人間と接していることを実感した。

 ジャケットの中に着ているシャツに手をやると、その下には確かに体温の感触。自分はこの空間に一人じゃない。孤独ではないのだ。

 いやちょっと待て、自分は人肌が恋しかったのか。

 まだ高二だぞ。それに、こんな上げ膳据え膳みたいなことが現実にあるものか。


 結論からすると、あった。



    ◇



 閑話休題。


 先ほどまでコトに及んでいたとは思えないほど冷静な顔で、銀の髪の男は着衣を整えた後、ベッドに座ったまま暉良が名前を書いた紙を再びじっと見ていた。

 後始末を終えた暉良と目が合い、紙と暉良を交互に指さす。これはお前の名前か、と言いたいのだろう。


「それは……タンノアキラって書いてあって……あーいいや。アキラでいい」

「……アキラ」

「お、おう……」


 二回言っただけなのに、恐ろしいほどの日本語の再現度で名前を呼びやがった。


「……お前は? お前」


 そう言って、男が書いた方の紙を持って来る。彼はそれを見ると、暉良に答えてみせた。


「フェレ」

「フェレっていうのか。意外に短いな……助かったけど」


 じゅげむじゅげむごこうのすりきれ……みたいな名前だったらマジで覚えらんないからな、なんてぶつぶつ言いながら、ちょっとした大きさになったティッシュの塊をゴミ箱に投げ捨てた。


 その様子を眺めながら、フェレは先ほどの体のやりとりを思い出して目を細めた。

 問題を抱えている人間の性質によって、どのような助けが必要かは変わってくる。話を聞くだけでいいのか、体を慰めてやった方がいいのか、それぞれだ。

 彼が後者に該当すると思ったのは、この生活環境から直感的に判断したことだった。

 別の部屋とはいえ、真昼から情事の物音が聞こえるというのは、どこの世界でも好ましくないような気がした。一度相手をしただけで治まったようなので助かったが。


 フェレは部屋の中を見回した。全体的に物が少ない。本棚が目に付いたので、並んでいる背表紙をじっと見た。緻密な線が組み合わさった文字、曲線の多いいくらか簡素な文字、それよりもすっきりとした直線ばかりの文字がいくつかの塊ごとに並んでいる。昔祖父が持っていた本の中には知らない国の言葉で書かれたものも多かったが、これらはそれとも違うように思えた。

 フェレは考えを巡らせる。

 読み書きまで覚えるのは難しいかもしれないが、彼と意志疎通ができるようにならなければ。時間も限られているはずだ。


「アキラ」


 フェレに名前を呼ばれて、ベッドを直し終わった暉良が振り返った。


「……え?」


 見ると、彼が先ほど自分の名前を書いた紙に何か書いている。名前の前後に何か文字を書き足して、それを指さしながら口にしてみせた。

 多分、名前を挟んでいるから自己紹介みたいなやつだ、と暉良は推測した。

 中学の英語の教科書の一番最初に乗っている、アイアムマイケルみたいなやつ。単語の数は三つあり、最後が彼の名前だ。

 ぱっと見、まさにアイアムマイケル的な順番ではないだろうか。彼と同じような発音はできなかったけれど。


 するとフェレは、暉良が名前を書いた紙を出し、シャープペンを渡してきた。マジか。書けって?

 促されるまま、自分の名前の前に「私は」と書こうとして、暉良ははっとした。


 ひょっとして、こいつは今ここで日本語を覚えようとしているのだろうか。


 確かに言葉が通じないのは不便ではあるが、現実的でもないような気がした。自分が教えて覚えられるのか? という素朴な疑問もある。

 それでもとりあえず漢字で書くのをやめて、名前を平仮名にした。「わたしは たんのあきら です」。

 いざ書いてみるとこれはこれで何だか恥ずかしい。そして、同じように指をさして喋ってやった。

 すると、彼はそれぞれの紙を見比べた。言葉の並び順が違うことに気付いたようだった。え、なんだこいつ、実は頭いいやつなのか。

 彼はじっと両方に目をやって考え込んだり、暉良の書いた方を何度も口にしているが、暉良が書いた文字は書こうとしない。やっぱりこいつ、会話をするために日本語を覚えようとしている。


 ……しゃーない、付き合うか。


 こいつを拾ったのも何かの縁かもしれないし、くらいの軽い決心だったのだが、それは翌日からたった三日間であれよあれよと実を結び続けてしまった。

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