第九話 第八王子への不敬罪
【警告。はなまる商店街でのヘルハウンド発生率が下降。E地区東部への移動を確認────ピ────瘴気周波数、危険レベル三から四に上昇】
夕焼け雲を黒く塗り潰すように立ち込める瘴気を横目に、
(これほどのまでの被害はお嬢様の体質が原因としか思えない………翡翠の効果が切れたのか!? そんなこと今まで一度もなかったというのに!!)
何度かけても繋がらない携帯に、舌打ちして嘆いた。
頼みの綱になるのは、GPS画面の点滅する一点だ。
(お嬢様が急速に東に移動している! 急がないと………!)
「ガルルルゥッ!」
人食い犬の一群が道に立ち塞がった。
ビキッと、凛のこめかみに青い癇癪筋が走る。
斜めに背負った二メートルもの大太刀を鞘から引き抜いて、ギラギラと刀身と瞳を鋭く光らせた。
「…………我が尊き主に害を成すものは、死、あるのみッ!!」
大太刀を振り上げ、上から斜め、横切って下から斜め、
左右の横合いから頭上にかけて襲いくる魔獣。
「ハッ!」
長さ二メートルもの大太刀を、風車のように回転させ、ケダモノの素っ首を刎ね飛ばした。
べちゃり! と黒い生首が地へ落ちる。
返り血を浴びて憎悪に満ちた凛の眼光は、血肉も足りず骨ごと食い尽くす飢えた鬼のようだった。
ばたっ、と力を失くして倒れた少年に、少女は喉を締め付けられるような悲鳴を上げた。
「あ……あ………そん、な………なん、で」
自分をかばって、地に突っ伏した少年。
今日初めて会ったばかりの自分を、名前すら知らない自分を、強く抱きしめて、子を守る親のように、一瞬の胸の温もりを与え、小さな少年は盾になった。
全身の肉に深い噛み跡が刻まれ、傷口から真っ黒の血を流して────
(えっ………黒い、血………?)
妙だった。あれだけの総攻撃を全身で受け止めておきながら、少年の体はどこももげていない。頭も、肩も、手足も、指一本、食われることなくくっついている。
「!」
少女は周囲を見渡すと、息を止めた。
総攻撃を仕掛けたヘルハウンドの群勢が、死んでいたのだ。
紅い目を剥き出したまま、口から血を吐いて、微動だにせず地に横たわっている。
歯と舌が跡形もなく溶けていた。赤黒い血と、漂う瘴気。それは魔獣からではなく、鮮血に混じった黒ずんだ血だまりからだ。
おずおずと、少年の体と見交わす。
「っ!」
出血部分から、煙のように大量の瘴気が溢れ出ていた。
信じがたいことだが、真実は目に見えていた。
ヘルハウンドは、少年の血に触れたことで殺されたのだ。
(猛毒の血…………黒血!)
少年の指先がピクリと動く。
「いっでぇ………」
小さな唇から、奈落の底から這い上がるような呻き声が絞り出た。
肩から骨が軋む音を鳴らし、指の曲がった手を地について、膝がカクカクと笑いながらも足を踏んで、ボロボロの体で立ち上がった。
ビキビキと関節が曲がる不穏な音と共に、頭を破ってツノが突き出て、犬歯が長く伸び、そして、黒い尾がなびいた。
(この人は…………悪魔!)
黒血に塗れた顔に、紅血の色をした目が嗤った。
(魔王の子…………!)
「いってぇなぁ………」
焼けるような激痛の中、アイスケは嗤っていた。
「いてぇ、いてぇ、いってぇよこの野郎ぉぉおひゃははははははははっ!」
鼓動と一緒に瘴気が波打った。
痛いはずなのに、体が動きたくて疼いている。
胸が轟くように踊っている。
口の中が熱い鉄の味を求めている。
この黒い血が、戦えと全身に燃え滾っている。
ざわついて集る魔獣さえも、極上の餌のように愛おしい。
「いいかぁ、お前らぁ、分かってんのかぁ? 自分どもが何をやらかしたのか」
すっ、と片足を大きく広げて地面に滑らした。
「魔界第八王子への不敬罪…………それは」
地を踏み鳴らし、バネのように膝を伸ばして跳ね上がる。
「尻尾ビンタの刑だぁッ!!」
背中を丸めて一回転、瘴気の孕んだ長い尾がヘルハウンドの頭部を叩きつける。
地面にキスして這いつくばる駄犬に嗤い、もう一回転、頬をぶって三匹まとめてドミノ倒し、さらに一回転、目潰しして顔面を抉り、逆回転、顎にアッパーして舌を噛ませる。
生肉の弾く感触が好きだ。
苦痛に呻く鳴き声が好きだ。
顔面に降りかかる血飛沫が好きだ。
この舌が焼けるくらいの錆臭い味が好きだ。
もっと! もっと! もっと! もっと!
寄越せ!
「あっはははははははははははははいひひひひひひひひひひひひひ!!」
悪魔王子の狂笑と乱舞の制裁を前に、少女は瞬きさえ忘れて、満月の眼球を震わす。
「あぁ?」
獣性剥き出しで暴れ狂う少年に、黒い大きな影が覆った。
首のない、目玉だらけの巨獣。無数の紅い目の瞳孔がキュッと開いた。
「ああ、あ、あはは」
ヘルハウンドを上回る、巨大な犬の群れ。
濃色の毛並みに、三つの頭。三角に吊り上がった紅い目。うねる蛇が蠢く鬣。
「あ、あれはっ! 地獄の番犬、ケルベロス!」
三つの頭から、三つの口が開いて、心臓を痙攣させるほどの咆哮が轟いた。
この餌は、どんな味がするんだろう。
そのハラワタの血の色が、見たい。
見たい。見たい。見たい。見たい。
舐め回したい!
「ははははははははははははははははっ!」
三回転してからの、渾身の尻尾ビンタを頭蓋骨に食らわせた。
鈍い痛みがして、何かが引っかかる。
「あ?」
尻尾が、にょろにょろと粘着質な鬣の蛇に巻きつかれている。べっとりと、瘴気の蜜が、尾に絡んで、皮膚を焼いて、さらに噛みつき、逃さんばかりに、二匹、三匹、四匹と、尾の枷は増えていく。
「う、あ、ああ」
三つの頭の上で、だらんと身動きできずぶら下がる。
見上げた先には、三頭犬の三つの口がぽっかり開いて、舌の上に黒ずんだ霧が圧縮されていた。
重い闇が中心から広がって、燃えるように縁が波打つ。
黒い隕石のような禍々しい三つの玉が、視界を埋め尽くした。
「こっちを見なさい!!」
少女の叫びに、魔獣は一斉に振り返る。
黄金色の双眼から、発光体のような強烈な
魔獣は目をきつく閉じて、絶息しそうな短い呻き声を漏らし、地に伏せる。
その隙に少女は大群に向かって走り、地面に逆立ちになってぐったりとしている少年の手を強く引いた。
「何をしているんですかぁ!!
懐かしい少女の声がぼんやりと聞こえる。
「ケルベロスは一流の騎士でも手を焼くほどの上級魔獣ですよ!! その群れに子供のあなたが一人で飛び込むなんて、それこそ自殺行為ですっ!」
懐かしい少女の温もりが、じんわりと掌に伝わってくる。
「あの、聞いてますか! あのぅ!!」
懐かしい。ちょっぴり尖らした声さえも、愛おしい。
愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて、
とても、哀しい。
「しっかりしてください!!」
ぱんっ、とひりつくような痛みがしたかと思うと、軽く両頬を叩かれたようだ。
目をぱちくりする。
視界に映ったのは、満月の瞳の女の子。
むぅ、とほっぺたを膨らまして、目にちょっぴり角を立てて、拗ねている子供のような表情をしている。
「あー……………ごめん」
呆けたように返事をした。
夢の中から一気に引きずり出されたみたいで、頭が重い。
記憶は鮮明ではないが、確かに覚えている。噛みつかれた時の激痛、全身の黒血がざわめくような鼓動、悪魔化した時の快楽、血の匂い、血の味、求めて、求めて、貪り食うように暴れ回った。
死が迫ってもなお乾いた口を開いて茫然自失していた自分に、女の子の声が辺り一面に響いて、あの眼底までくらませるような眩い光を最後に意識が遠のいた。
そして、今に至る。
ここは水辺から離れた木の下みたいで、蔭からそっと覗くと、魔獣の群れは紅い目を閉じ背中を丸めて蹲っていた。
「すっ、げぇ。きみ…………魔法使えるんだね。さっきのは魔眼?」
尋ねると、女の子はバツの悪そうな顔でうつむいた。
「………魔眼、ですが。使えるのも少量で効果も薄くて、私自身魔力のコントロールができていないから………だから、列記とした魔法は使えないのです………」
「でも、すごい威力だったと思うよ。助かった。ありがとう」
あんな魔獣の大群を一瞬で鎮圧させたのだから、とても誇らしいと思う。
「あなたは?」
女の子が質問した。
「あなたは、魔法が使えないんじゃなかったんですか?」
ギクリ、と背筋が震えたが、
何の邪心も虚飾もない、まっすぐとした無垢な眼差しを向けてくるので、その視線からは逃げられなかった。
「おれ、は」
女の子はこちらに顔を寄せてじっと見る。
ドキッとしたが、今の自分はツノもキバも尻尾も丸出しのオープン悪魔状態。もう逃れようがない。
観念してアイスケは真実を吐いた。
「俺は、黒血持ちの、悪魔で…………でも、きみと同じ、魔力のコントロールができない。形態化ができない。だから黒血の力が発揮できるのは、何というか、グロッキーな話だけど………さっきみたいに、噛まれたりとか、刺されたりとか、受け身の時しかできないんだ」
話していると、嫌な汗が流れた。怖くて女の子の顔が見えない。
「必殺の尻尾ビンタはいつでも常備してるけどね! さすがに三頭のケダモノには不発だったけど!」
ははは、と引きつった笑み。
顔が強張って、得意な愛想笑いもできない。奥歯がガチガチする。乾いた喉が震える。手足がすくむ。
おそるおそる、女の子の顔を見た。
「なるほど、そうだったんですか」
予想を裏切り、女の子はあっさりと返事して、涼しいくらいの真顔だった。
アイスケは呆気に取られる。
「きみ、怖くないの?」
むしろこちらが怯えたように聞く。
「俺、魔王の子なんだよ?」
あれほどの、暴走を見せた。
人外な笑いを見せた。
漆黒の血を見せた。
今まで多くの人間と知り合ってきたが、やはりこの姿を見られた時は、誰だって瞳に恐怖の色が染まっていた。
だけど女の子は、こんな至近距離で、澄んだ瞳をぱっちり開いている。
そして空を眺めるように顔を上げた。
「怖いですよ」
そう、淡々とした口調で言う。
「悪魔は怖いですし、魔王の子はもっと怖いです。小さい頃からずっと、パパや、周りの人から、たくさん悪魔の恐ろしい話を聞きました。悪魔は非道だ。たくさんの人間を殺した。血も涙もない、おぞましい生き物だって」
女の子は、輝く眼差しをゆっくりとこちらに向けた。
「でも、あなたは私を助けてくれた」
満月の瞳が、視線を縫うようにこちらを見る。
「何度も、何度も、助けてくれた。今日出会ったばかりの、名前も知らない私を助けてくれた」
女の子の桜色の唇が綻びる。
「だからあなたが悪魔でも、魔王の子でも、私にとっては恩人です。絶対に絶対に、この恩を忘れることはないです。忘れちゃダメなのです」
そして、咲き誇るヒマワリのような明るい笑顔を見せた。
「ありがとうございます、優しい悪魔さん」
その笑顔に、その声に、その光に、武者震いでもない臆病な震えが、止まった。
何を怯えてんだよ。胸の真ん中から、もう一人の自分が嘲笑った。
俺は、ヒーローだろ。胸の奥底から、火を噴くように燃え盛る自分が叫んだ。
擦り傷だらけの拳を握りしめる。
もし、運命ってやつが、このミラクルな世界にあるんだったら───
己の役目と、この子の笑顔にかけ合わせて、誓おうじゃないか。
この運命の出会いを、悪魔相手に微笑んでお礼を言った馬鹿正直なこの女の子を、
絶対に、守ってやる。
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