第21話 夜の果て
ウィリアム・シェイクスピアは、戯曲「マクベス」の中で、こう書いた。
"The night is long that never finds the day"。
「あぁ……明けない夜はない、だったか……」
「でもね、俺はそんな即物的な意味には思えないんだ」
「じゃあ、ハルはどう思ったの?」
「そうだなぁ……」
夜の中にいると、朝にあれだけ輝いていた太陽は欠片も見当たらない。
もしかしたら、一生朝なんて来ないんじゃないか。
もう二度と、陽なんて昇らないんじゃないのか。
そんなばかげた考えですら、夜の中では否定できなくなってくる。
朝が来るという、当たり前のことを疑ったりして。
夜ってのはやっぱり悲劇などの大きな苦しみで。
見えない太陽を探すだけの力もなく、恐れが膨らんでいく。
夜が長ければ長いほど……。
「最低でも8年……それだけの明けぬ夜は、長かったでしょ」
「……長かった……陽の光を思い出せなくなるほど」
トーマさんから太陽を奪った人物は、少なくともトーマさんに手を伸ばすことができない場所へ行った。この先二度と、会うことはないだろう。
俺たちは、ただただ黙って夜の中を過ごしたわけじゃない。
空を裂きすべてを白日の下に照らす、ギラギラとした刃を研いでいたのだ。
朝という名の、希望という名の刃を。
「俺、この言葉を好きな理由がひとつある」
「なに?」
「誰かがたとえて言ったことさ……春の来ない冬はない、って」
「それって……」
トーマさんに向かって思い切り笑うと、照れくさそうに膝を抱えた。
すごいよな。
あんな何百年も前から、俺たちを表す言葉を書いたんだ。
「マクベスはシェイクスピアの四大悲劇のひとつだけど、その中ですら、こんなにも希望に満ち溢れた言葉があるんだ」
「そっか、そんな言葉だったんだ……」
「トーマさんはどういう意味だと思ってたの?」
どこか決まりが悪そうだ。
何かネガティブなことを考えているのだろうか。
「……でも、沈まない陽もないだろう?」
「おう、ネガティブ」
「だから……夜が来ることを、恐れるな、と……」
ああ、そうか。
この人は、周りの人間が思うほど、か弱くないのだ。
どれほど打たれ弱くたって、芯までは折れない。
擦り傷だらけになったって、砕け散ったりしない。
ほんの少しの支えがあれば、いつかきっと、輝きを取り戻す。
「また一緒に絵を描きたいね」
「ん、部屋の清掃が済んだら、そうしようか」
土は土に、灰は灰に、塵は塵に。
あるところへ帰るべきだ。
神は天にかえさなくてはならない。
風花トーマは必ず立ち直る。
ただひとりの”本物”として。
――お前の光は、今、何処にある。
目の前に。
◆
そういえばハルって読書家だよなぁ。
初めて会った時も、本を買いに来てたくらいだし。
「僕も、シェイクスピアで好きな言葉、あるよ」
ハルと会ってから好きになったんだけど。
そのままの意味で、僕たちにはお似合いの言葉がある。
「恋の始まりは、晴れたり曇ったりの4月のようだ」
「こんなのもある……誠の恋をするものは、みなひと目で恋をする」
はるか遠い昔から、愛の形はきまっていたのだろうか。
それでも僕は、見たこともないその作家が、ずうっと昔のその場所から僕たちのことを見てにやりと笑ったように思った。
僕の絵もいつかそうなるのだろうか。
何十年、何百年……そこまで残っているかは疑問だけど、それほど後になって、誰かが絵の中から僕たちに見られているような感覚に陥って。
その時に、絵が正しい意味で伝わるといいな。
心を表せないと、途端に絵から意味が消えてしまうから。
部屋の様相はすっかり変わった。
例の人物が触れたものはすべて捨てたし、証拠として持って行ってもらったものもたくさんある。引っ越すには思い出が惜しくて、そのまま住んでいるのだけど。
新しいものは、冬だった今までとは違う春の色。
物置を片付けて、ハル用の部屋にもした。
ハルは「目標は達成した」といって絵の練習をしなくなった。
最初こそ寂しく思ったものの、それは当たり前のことだった。
すべてを教え終わり、後は未来へ巣立っていくもの。
ハルはいつでも僕を見つめて、好きなように絵を描いている。
それほど変化があっても僕たちは相も変わらず、一緒にいた。
外の世界はいつの間にか秋を通り過ぎ、冬の訪れを知らせている。
「降ってるなぁ」
「今年は特によく降るんだって」
窓から外を見下ろすと、あちこちでイルミネーションが光っていた。
どこから聞こえてるのか知らないが、楽しげなジングル・ベルも聞こえる。
まだクリスマスじゃないのに騒めきの増すこの雰囲気が、好きだ。
「トーマさん」
「なに?」
心なしか、ハルも楽しそうだ。
ダンスでもするのかと聞きたくなるような素振りで僕の手を取る。
「誕生日、おめでとう」
「あ、憶えててくれたんだ」
いつの間に調べたんだ、と聞きたくなるくらいにぴったりと嵌った指輪。
きらりと冷たい光を放ちながらも熱を帯びていて、ハルがいつ渡そうかと握りしめていたであろうことを示している。
その熱がどれほどの真剣な意味を内包しているか、さすがの僕でもわかった。
「あれ、ハルのは?」
「学生じゃ一個で手一杯だった」
「じゃあ、ハルには僕から贈らせて」
もうすぐ、クリスマスだし。
既製品にはなるだろうけど、ぴったりなものを探すから。
「俺も、向こうに住む頃には、もっといいやつ贈るんで……」
「これで充分だけどなぁ」
「俺、トーマさんが嫌だって言っても絶対、離れないから」
「言わないと思うけど」
「どれだけ時間が経ったって、いくつになったって、隣にいるから」
窓の外は、いつもと同じはずなのに。
どうしようもなくあたたかいものに見えた。
◆
トーマさんの言葉を聞いて、ふと思い出した。
「夜の果てへの旅」という本がある。
その一節に「夜の果てる日などありはしないのだ」という言葉があったのだ。
その本は長いし、めんどくさいし、俺が正しく解釈できているとも言えない。
それでも何か、運命のような、清々しいものを感じた。
うんざりするほどに存在している人間と言う生き物。
心や感情、考えなんかというものはあやふやで、ひとりの人間の中にすら確固としたものは存在せず、天気のごとくぐしゃぐしゃに移り変わる。
色んな出会いと別れがあり、人生にはこれといった意味もない。
気分次第で善いことをしてみたり、悪いことをしてみたり。
ただ光陰と過ぎ去る時の中、平凡であることを望みながら、夜の果てを探して。
読んでも読んでも、ただただ空しさばかりが残るものだったが、そうか。
人は己の終わりを知ることが怖いのだろうか。
それとも、何かのはじまりを知ることが怖いのだろうか。
同じような日々を繰り返して、死んでいくことが空しいとは俺は思わない。
人が人でいようとする限り、生きるだけで精一杯のはずだろう?
自分や誰かの人生を俯瞰して見ない限りは、そうだろう?
だから俺は、いまが楽しくってしかたない。
これから何度夜が来たって、朝まで手を引いて行ってあげる。
どうしても歩けないなら、俺もしゃがみ込んで背中を擦ってあげる。
だから、傍にいさせて。
それがずっと変わらない、俺の朝だから。
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