第12話 妹は何でも知っている



「……えっ、今!?」

「どしたのトーマさん」

「あ!こら、ちょっと!……切れた」

「なんです?」


トーマは狼狽えてうろうろと歩き回っている。

ハルは全く状況を理解できず、筆を置いた(が、すぐにトーマから「洗ってから置きなさい」と言われ、しぶしぶ洗った。トーマに根付いた無意識だったのかもしれない)。


「どうしたんですか、一体」

「妹が来る……」

「妹!?トーマさん、妹いたんだ……」


新しい情報だ、とハルは心のメモに書き留めた。


「で、何をそんなに慌ててるんです?」

「だって、ここ最近ずっと連絡してなかったから絶対怒ってる」

「ふっ」

「笑ってる場合じゃないよ!ハルのことだって聞かれるだろうし……」

「まずいなら帰りますけど」

「ひとりにするな!」


どんなに恐ろしい妹だよ、とハルは思った。

だが、いてもいいと言われたからには、妹に覚えて帰ってもらおう、と企む。

いつか楽園に連れ去るつもりだから、尚の事信頼を勝ち取らなくては。


全く散らかってない部屋を片付けようとするトーマを落ち着かせ、もてなす準備をする。20分ほど経ったあたりで、ゆっくりとインターホンが鳴った。


「は、はい?」

「開けて」

「は、はい……」


トーマよりきりっとした顔立ちをしたスーツ姿の女性が、見た目通りてきぱきとした動作で家に入って来た。部屋の様子を眺めて眉間に皺を寄せていたが、ハルを見つけて驚いたような顔をする。そうしていると、トーマの面影がなくもない。


「びっ……くりした、友達?」

「いや、友達……というか」

「絵を教わってます、ハルです」

「ハル、この子が妹のナツメ」

「よろしく、ナツメさん」

「…………絵を」

「はい、絵を」


驚いた表情のまま固まり、やがてぽつりと漏らす。


「お兄ちゃんが、絵を……」

「あ!いや、僕は描かないけどね!?ハルが描いてるのを見るだけというか……」

「…………それでも、また絵に関わろうと思ってくれて、よかった」

「ナツメ……」


ぽろぽろと涙を零すナツメと、全く意図していなかった反応にあわあわするトーマ。


「とりあえず、座ったらどうです?」


絵と画材を隣の部屋に片付け、スペースを作った。

テーブルをさっと拭いて、用意していたお菓子と飲み物を出す。


「えっと、改めて……僕の妹、ナツメ……それでこっちが、一応教え子のハルくん」

「どうも、花美堂ハルで……」

「あーーーーーっっ!!」

「な、なんだよナツメ」

「そのマグカップあたしがずーっとほしくてちょうだいってお兄ちゃんにお願いしてたのに!!なんであの子にあげちゃうの!?信じらんない!!」

「え、そうだっけ?いや、あげてないよ、貸してるだけ……」

「ずーるーいー!!絶対あたしが先だったのに!!」


トーマから「ね?」というアイコンタクトをもらい、頷く。

ハルの想像したのとはだいぶ違ったが、なるほど、だ。


「わかった、もう1個買ってナツメにあげるから……」

「…………ハルくんて、そんなに大事なの?」

「……まあ、大事というか……いや、うん……大事」

「……そう、よかった」


そこでキラリと、ナツメの目の光が変わった。


「で、ハルくんの絵はどんなかしら」

「え、なんで?」

「あー……ナツメ、いわゆる画商をやってて」

「画商!?」





「えーっと、どうですかね……」

「…………つまんないわ」

「え?」


トーマ宅に置いてあったハルの絵をまじまじと観察し、ため息と共にそう言った。

呆れの中に仄かな失望を滲ませて、緩く首を振る。


「優等生の絵ね、お兄ちゃんに教わってこれならバズるのはムリ」

「え?」

「こら、ナツメ!」

「お兄ちゃんだってわかってるんでしょ?」

「いや……そういうわけじゃ……まだ基本を学んでる段階だし……」

「いや、俺自身もわかってますよ」


わかってるなら話は早い、とビジネス用の顔を作るナツメ。

どれほどがっかりしちゃったかしら、とハルに向き直るものの、そこにあったのは予想から最も遠く離れた顔だった。


「いま必要なのは、その優等生の絵なんです」


満面の笑みだった。

ぞくり、と怖気が走る。


(お兄ちゃん、とんでもない子に捕まったんじゃないの……?)


「ちょっとあたし、ハルくんだけに話があるんだけど」

「あ、じゃあ僕はどこにいれば……寝室?」


ナツメは腕時計をちらと見て、今日の天気でも応えるように堂々、宣った。


「晩御飯、カレーがいいな」

「え?あ、カレー……ごはんね……」


どこか納得できない様子でキッチンに向かうトーマを尻目に、ナツメはハルの袖を引いた。引かれるままに着いていくと、玄関に行きついた。帰れと?とハルは思う。


「本当は、どんな絵を描きたいの?」

「……鋭いですね、ちょっと俺びっくりしましたよ」


目は確かなようだ。


「トーマさんには内緒にしてくれます?」

「……その前にさ、あなた、お兄ちゃんを傷つけるようなこと……しないわよね?」

「しない」

「即答か……まあ、信じましょう」


物置から以前デッサンの時期に使っていたクロッキー帳を取り出し、目的のページをパラパラと捲る。見やすいように開き、ナツメに手渡した。


「……お兄ちゃんだ」

「それです、俺が描きたいのは」

「……絵を描いてる、お兄ちゃん」

「だってそれって、失くしていいものじゃないでしょう?」

「うん……あなた、こんなに……力強い絵を描くのね」


鉛筆だけで描かれたトーマを、滲まないように触れずに撫でる。

いつからか見なくなり、失ったはずの姿。


写実的でありながら、力強さと儚さを持つ矛盾したタッチ。

強い存在感を放ちながらも、儚く散ったトーマと重なる。

彼を描くためだけに存在しているかのような奇跡のタッチだ。


「ナツメさん、トーマさんが絵を描かなくなった理由、知ってるんですか?」

「……知ってる……けど、何もできなかった」

「俺が……取り戻します」

「……どれを?」

「ぜんぶ」


ナツメの喉がひくりと鳴る。右の口角が震えながら上がる。


内ポケットの金属ケースから名刺を一枚取り出し、何かを書き添えてハルに渡す。


「もしまたお兄ちゃんに何かあったら、連絡して」


この間の監禁事件のことを言っているのだろう。

家族の耳に入らない訳がないのだから。


「……前の事件のこと、聞いたのがあたしや母だから良かったけど……父の耳に入ってたら、お兄ちゃん、連れてかれてた」

「え?」

「家を出るのだって当時ものすごく反対してたのよ?本人のためにってしぶしぶ送り出したかわいい我が子の今を知ったらどう思う?」

「そりゃあ……そうなりますね」

「ハルくんが悪いって言ってるんじゃないわよ?昔からお兄ちゃんの周りには……光や花や砂糖菓子に群がる害虫以下みたいなやつが多かったから」


ああ、トーマのような目を、ナツメもするのだ。

ナツメも似たように何かの暗いものを抱いているのだろう。

「俺もそのひとり?」とは聞けなかった。


「籠の中で飼い殺しの運命だなんて、嫌だもの」

「…………」


楽園なら籠じゃないよな、と自分に言い聞かせ、ハルは微笑んだ。


「じゃ、あたし帰るわ」

「あれ、晩御飯食べるんじゃ?」

「あたし仕事の途中だから」

「え、トーマさんカレー作ってますよ?」


ハルの問いに、ナツメは楽しそうに笑った。


「あなたがカレー食べたそうな顔してたから」


ナツメは「でもマグカップの件だけは許さない」とだけ残して帰っていった。


「味方に引き込むべきだったな……」


”楽園計画”を説明するべきだったか。

いや、トーマさんの反応次第か。


漂い始めるカレーの香りに、面倒な考えはどこかへ行ってしまったのだった。


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