-08 色彩のワルツ
「ハル、お外に遊びにでも行ったら?」
「そとってどこ」
「どこって……じゃあ、本でも買ってらっしゃい、お金あげるから」
「わかった」
花美堂ハル、8歳。この街に引っ越してきてわずか1週間程度の頃。
家から1歩も出ようとしない息子を見かねて、母親は半ば無理矢理追い出した。
今はどこの小学校も春休みだけど、外に出さえすれば遊び相手も見つかるだろう、と考えてのことだった。
「我が子ながら、無口だわ……誰に似たのかしら」
仕事仕事仕事、の旦那の顔を思い出す。
段ボールを潰す足に思わず力が入っていた。
◆
「……雨じゃん」
テレビばっかり見るからと、花美堂家ではまだテレビの箱は開けられてもいなかった。新聞を見る習慣のないハルや母親では、天気の変化に気付かなかったのだろう。
ハルは仕方なく近くの軒下に駆け込んだ。
ここから本屋の入ったデパートまで、まだ少し歩く。
帰ってもすることもないし、母親が何か言うだけだ。
ただボーっと、雨模様を見つめていた。
「どうしたの?」
ざあざあぼたぼた騒めく中で、その声だけがはっきりと聞き取れた。
振り向いた先には、職人の最高傑作、と貼り紙がしてありそうな整った顔。
建物から漏れる灯りできらきらと色彩を変えて、海のような輝きを持つ瞳。
何を考えているのかわからないぼんやりとした表情が、またしっくりくる。
「雨が……」
「あぁ、ほんとだ」
点き始めた街灯が水たまりに反射して、その人に海を映した。
「店内にいたから気が付かなかった」
「お店?ここなんのお店?」
「本屋さん」
小さいけどね、と笑う顔に見とれてしまい、言葉の意味を理解するのにしばらくかかった。ハルは「じゃあちょうどよかった」と上ずった声で言い、店内に入る。
「決まったら教えてね」
早々に帰るのが惜しくて、悩んでるふりをしながらちらちらとレジにいるその人を見た。そんなことを繰り返していると、ふと、一枚の紙が目に入った。
字の内容は全く目に入らず、そこに描かれた小さな絵に魂を掴まれた。
(人魚だ。あの人はきっと、海からきたんだ)
ハルは自分でもわからない理屈で、その人を人魚だと思ってしまった。
そしてその瞬間、自分の周りに幾重にもなっていた泡のような何かがぱちんと音を立てて消え去った。色が、音が、それまでの認識すべてが鮮やかな何かに変わってしまった。初めて自分というものを意識し、同時に悲しくなるほど美しいものを知った。
「あのっ……」
今までなら、話しかけることに躊躇いなどなかった。
こんなに大きく心臓が鼓動を打つこともなかった。
五感すべてで感じる色彩の洪水に溺れることもなかったのに。
「どうしたの?」
「……人魚、寂しそうだったから」
俺がいっしょにいてあげる。そう言いたかったのに。
近付いてくるごとに、鼓動が大きくなる。
胸元の名札には「風花トウマ」と書いてあった。
声に出ないように、トーマさん、と何度も繰り返す。
なんて素敵な音だろう。トーマさん、トーマさん。
きっとこの世でいちばんきれいな名前だ。
いますぐこの人を掴み取って、誰の目にも触れないように家の水槽に放ちたい。
そのまま一生を水槽の前で終えてみたい。そう、ハルは思った。
そんなことは露知らず、トーマは力の抜けたように笑った。
「ほんとだ、確かに寂しそうかも」
「あ、あの、ちが……」
人魚は絵でなくトーマさんなのだ、と幼いハルが言葉にすることはできなかった。
トーマは紙を抜き取り、さらさらと何かを描き足した。
「……竜宮城?」
「よく知ってるね。そう、竜宮城」
「なんで人魚に竜宮城?」
竜宮城の絵もたしかに綺麗だ。綺麗なのだけど。
それじゃ浦島太郎じゃんか、とハルは思った。
「ふふふ」
(まあ、きれいだからいっか)
「雨、止まないね」
「……降ってるのわすれてた」
「あはは、雨宿りだったのに」
雨なんて止まなきゃいいのに。
そう思った。そう言いたかった。
「僕、ちいさい頃、雨が大嫌いだったんだ」
「どうして?」
「雨は嘘つきだと思ってて」
「うそつき?雨が?」
「歌があったんだ、神さまの涙がドロップになって、雨はそれが降ってくるって」
「あ、聞いたことある」
トーマは「でも、そういうわけじゃなかったんだよなぁ」と笑った。
「本、決まった?」
「……まだ」
「他にお客さんもいないし、一緒に選ぼうか」
「うん!」
雨脚はまだ強く、ハルはあれやこれやと説明をねだり、トーマはいちいち説明をした。ハルが買う本を決めた頃には、すっかり雨も止み、きらきらとした水滴を残すだけとなっていた。
「虹だ!」
「よかったね、晴れて」
「うん……えっと……」
「ん?」
「おれ、絶対また会いにくる!!」
そう言うと、ハルは振り返りもせずに走って行ってしまった。
「いい子だったなぁ」
その場に小さな電子音が響く。
トーマはふと、表情を硬くした。
内容は予想した通りのもので、トーマの胃を締め付ける。
たったひとりからの好意で、どうしてここまで苦しまなければならないのだろう。
「どこから見つかったんだ……」
街を見渡しても、誰もそんな素振りを見せない。
「…………」
SNSのDMで送られてきたのは、トーマ自身の写真だった。
たった一瞬前、ハルを見送った時のもの。
アカウントは違えど、送ってくる人の名前だけはいつも同じ。
いつか「あなたの絵に救われたんです、だから私も絵を描き始めました」と言っていた人間だ。それだけなら無視もできた。それだけ、なら。
「トーマくん?」
「……店長」
◆
「えーっと、風花、トーマ……」
ハルは家に帰ってから、ノートパソコンでトーマの名前を調べてみた。
「わ、トーマさんだ」
いくつもの絵のコンテストが引っ掛かった。
一番新しいものを見つけ、クリック。
高校1年風花冬真、と書いてあった。
「トーマさんって高校生だったんだ」
15か、16歳。8歳も上だ。
「やっぱり、きれいな絵だ」
青くて、滑らかで、どこか悲しい。
心臓が、手で掴まれたようにぎゅるぎゅると鳴る。
「ん?」
自治体が運営しているようなサイトばかりの中、SNSのアカウントが引っ掛かった。絵の写真ばかりが載っていたが、ハルにはそれがトーマだとわかった。
「トーマさんだ!」
まだアカウントの作り方もわからず、そもそも作れる歳でもないので仕方なくブックマークに入れた。
宝箱だと思った。
ただの言葉でさえ、そこにあるだけで美しい響きを持っている。
毎日のように見に行っては、どきどきと心臓を鳴らしていた。
◆
「えっ……トーマさん、やめちゃったの?」
「……きみ、トーマくんの知り合い?」
「知り合い……ってほどじゃ、ないけど」
そうだった、と気付いた。
ハルが一方的に知っているだけで、トーマはハルのことを知らないはずだ。
ただ一時の雨宿りをして、話しただけ。
「……まあ、きみじゃないだろうから教えておくね」
「おれ『じゃない』?」
「誰にも言わないであげてね……」
「絶対、言わない」
店長の話を要約すると、こうだった。
トーマはしばらく前からストーカーに遭っていたこと。
そうでなくても、人から好かれやすく、何度もそういう目に遭いかけたこと。
警察も動けず、あちこち引っ越したりして逃げ続けていたこと。
ここも見つかり、辞めるしかなくなったこと。
ただ、今回はいいこともあった。
あのポップを見た本の作者が気に入り、トーマには絵の仕事が入っていくようになったそうだ。そうなれば、不用意に外に出ることもなくなる。
ハルには難しい話でもあったが、それでもトーマがどういう状況に置かれているのかわかった。
「……そっか、人魚の絵、きれいだったから」
「……きみ、もしかして『人魚が寂しそう』って言った子?」
「うん」
「じゃあ、話しておいてよかった……トーマくん、気にしてたから」
「なにを?」
「『また来る』って言ってたのに、自分がいないんじゃ申し訳ないって」
ハルはなんだか、泣きたい気持ちだった。
悲しいとか怖いとか、そういうことじゃなくて。
自分が情けなくて泣きたかった。
「誰にもトーマくんの話、しないであげてね」
「うん……絶対、秘密にする……トーマさんのために」
「これ、トーマくんからきみに」
「おれに?」
「うん、よくわからないけど『雨のこと、嫌いにならないであげてね』って」
ハルは店長から、付箋の付いた真新しいドロップ缶を受け取った。
軽く振ってみると、心地いい音が鳴る。雨の音とは大違いだ。
帰り道はまた雨が降っていて、でも雨宿りをさせてくれる人はもういなかった。
それでも手の中には、日だまりみたいなあたたかさがある。
ハルは自分でもわからない感情で泣きながら帰り、宝物の箱を開いた。
「よかった……トーマさん、いる」
2日か3日に1回程度だったが、そこにトーマが生きているだけでよかった。
見られるものはすべて見た。
誰が一番トーマに話しかけているのかも調べた。
それに対するトーマの返事も、話しかけた人間の素性も。
その中で、ひとり、様子のおかしい人間がいた。
「カナタ」という名前の人物だった。
トーマが水彩画を載せればそっくりな水彩画を、デジタルイラストを載せればそっくりなそれを。トーマを追いかけるように、いや、追い詰めるようにしている。
ハルは憤慨して、運営に通報しようとした……が。
「なんでここだけ英語なんだよ!!」
ハルはまだ、8歳だったのだ。
「母さん!俺、英語塾行きたい!」
まだまだ考えの及ばない、ちいさなこどもだったのだ。
◆
カナタは、アカウントを変え続けていたが、いつも必ずトーマのアカウントをフォローし、追い詰めていた。
トーマの方でもブロックしているようだったが、カナタはすぐにアカウントを変えトーマをフォローした。やがてトーマはSNSの更新が4日に1度、週に1度と減っていき、最後に更新したのは2ヶ月も前だった。比例するように、カナタの更新頻度だけが増えていく。
「人の宝物に傷つけやがって……」
その頃にはカナタの絵も多少上達し、特にデジタルイラストではトーマそっくりな絵を描くことが可能となっていた。
新しく目にする誰かに至っては、同じ人物のアカウントだと思っている。
「どいつもこいつも目が節穴かよ」
気付かないのだ。
明らかに故意である模倣にも、トーマの絵というお手本がなければ絵を描かないカナタにも、埋もれていく消えていくトーマにも、愛が憎しみに変わり牙を研ぐカナタにも。
ハルはトーマを守りたかったが、居場所も知らない上に、歴代のストーカー共と同じようなことはしたくなかった。余計な恐怖など、トーマに与えたくなかったのだ。
本当なら見ているだけでよかった。
「早くなんとかしないと……」
でも、どうしようもなかった。
まだまだ、こどもだった。
嫌な予感ほど当たるもので、ハルが14歳の頃、トーマは殺された。
殺したのはカナタだった。
「もうやめてくれ」と懇願したトーマを。
逆に模倣者扱いし、精神のおかしなやつ、と。
誰もトーマを守らなかった。
あの頃からずっと変わっていないはずの相互フォロワーたちも。
その中の何人かは、トーマの個展でトーマに直接会ってもいたのに。
宝物の箱は宝物が消滅したことだけを知らせ、ひと月後、本当に消え去った。
トーマは殺された。
異常な愛情の100倍の憎悪によって、いとも簡単に。
ハルの純粋だった愛を濁すほどに。
◆
だから、声をかけずにはいられなかったのだ。
ハルは16歳になっていた。
ちょうど人生の半分を、トーマを愛することに費やした頃だった。
名残雪の舞い散る中、あの頃のまま、しかし痩せ細り顔色の悪いトーマがいた。
あの頃とすっかり変わったハルを、不審者でも見るような目で見ながら。
でも、海のようなきらめきを宿した色彩は変わっていなかった。
ハルにはそれだけで充分だった。
ハルにはいくつかの計画があった。
使えるものをすべて使い、自分の未来を代償にした。
まあ、代償は後でどうとでもなるだろう。
開き癖のついた分厚いノートを開く。
図面や様々な数値が描かれたページ。その間に、1枚の写真が挟まっている。
「いつか、言ってたよな?」
母方の故郷の海の傍、青と白で塗られた家に住んでみたい、って。
庭にはオレンジとレモン、それからブルーベリーを植えて。
冬には暖炉のある部屋にツリーを飾りたいって。
周りにはトーマを詮索する人間なんていない。
どこまで行っても、トーマを殺す人間なんていない。
すべてをやさしさで作り、トーマを癒し守るものだけ。
楽園につれていってあげる。
あと2年で完成する、トーマだけの楽園に。
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