第10話 檸檬
「……散っちゃったね」
「見事に葉だけっすね」
「……本当は、満開の時に一度はハルと来ようと思ったんだ」
監禁されたり入院したりその後のケアなどでいつの間に夏になっていたのだ。
「帰ろう」
「葉っぱだけでも悪くないっすよ」
擦り減った心が、満たされることなく折れそうに不安な気持ちになる。
でも、これでよかったのかもしれない。
だって、いいことのあとには大きすぎる不幸が待っている。
いいことを保留にさえしておけば不幸だってやっては来れまい。
そうでも思わないと、耐えきれない気がするんだ。
いつか誰かが言っていたように、僕は好きだったことでさえ何をすることもできず、ただ焦りと悲しみの元で生きている。
人を避けたいと思っておきながら、きっと本当に求めていたのはぬくもりだった。
確かに脈打つ背中の振動が、唯一僕を落ち着けるものになった。
ハルの絵はまた進化し、今度は色を使った絵を描いている。
季節の色、時間の色、気温の色、天気の色、そのどれもが違う色。
もの、質、かたち、色々な要素がかけ合わさって、景色は偶発的に生まれていく。
僕はそうして真剣に絵を描くハルの邪魔をするように、ただその背にだらしなく寄りかかっている。近頃はどちらも好きなように過ごしていることが多く、こうしていてもハルは僕を邪険になどしなかった。
ハルの鼓動を数えている内に寝てしまったようで、目が覚めた頃にはハルの絵が3枚できていた。僕はハルの背後でそれらを眺め、自分の利き手を眺める。
幻肢痛のように疼くのに、ちっとも動きやしない。これまでの時間を今まで通り使えていたら、いったい僕はどれだけの作品を完成させることができただろうか。
いや、最近はそうも思わなくなってきた。
どこかで帳尻を合わせているのかもしれない、なんて。
今まで僕が忙しなく生きてきたから、休息を余儀なくされているのかもしれない。
ハルの鼓動は規則正しく動いていて、あたたかい。
ハルの絵は規則正しく描かれていて、やっぱりつまらない。
ハルの規則正しさはいったい、どこから来ているのだろう。
その規則正しさを、少しだけでいいから狂わせてみたくなる。
「ハル~」
「なぁにトーマさん」
「お前他に友達いないのか?」
「トーマさんこそいないんですか」
「いないんですよ」
「いないんですか…」
トクトクトク、トクトクトク、規則正しい鼓動。
「僕はいいんだよ……お前はどーなんだよ、高校生だろ?」
「ヤですよ、同じような偏差値だけで詰め込まれた同じ箱の中だからってだけで、友達になるなんて」
「そういうもんか……」
「そういうもん」
じゃぶじゃぶじゃぶ、かつん。
ハルが筆を洗う音。
規則正しく三回に、仕上げとばかりにバケツの淵を叩く。
僕はどうだったっけ……まあ、どうでもいいか。
のそりと起き上がり、キッチンへ向かう。
キャンディポットからハッカのドロップを取り出し、口に放り込む。
最早習慣となったものだ。
そのままの動きで、お隣さんに貰ったレモンを絞り、レモネードを作る。
桜の季節が終わったのなら、レモンを絞ってやろう。
過ぎ去った春のために。また来るハルのために。
水晶のような氷塊を3つ浮かべて、ふたつ。
テーブルに並べて、かつんと鳴らす。
からん、からん。
夏の音がした。
「あ、そうだ」
ハルに渡す予定だったのに、すっかり忘れていた。
「ハル」
「どしたのトーマさん」
「これ、ハルにあげようと思って」
「……え?」
いわゆるペンタブだ。
上達の早いハルなら、きっとすぐに必要になるだろうから。
「……俺、もらってばっかりだ」
「目に見えるものはそうかもしれないな」
「目に見えないもの、俺、あげられてます?」
ハル用になったカップを見てもそんなことを言えるだろうか。
「本当に大切なものは、目に見えはしないんだよ」
「見えたらいいのにな」
「ちゃんともらってるよ、ハルからたくさん」
トクトクトク、トクトクトク、規則正しい鼓動の音。
からん、かららん、氷の不規則な音。
レモンの香りが部屋中に満ちて、夏の真っただ中になる。
僕は安寧の中、ふたたびそうっと眠りに落ちた。
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