第9話 ミザリー


どこかから讃美歌がきこえる。


神さまがいるのなら、僕には安息も祝福もいりません。


ただ無へ、塵へ還してください。


メープルシロップのかかったパンケーキもいりません。



「………………あれ?」


目が覚めると知らない部屋にいた。

讃美歌はベッド横のスピーカーから流れていたようだ。


目が、覚めてしまった。

これが、僕のお葬式なら良かったのに。


音楽を止めようと起き上がったが、何かに引っ張られておかしな転び方をしてしまった。足には枷がはめられており、枷からは鎖が伸びていた。

まるで囚人だ。いや、ここは地獄なのかもしれない。


「トーマ、起きた?」

「…………マルス、くん?」


とは言っても、彼の顔なんて見たことなかったけど。

この低く重厚な声は聞き間違えたりしないだろう。


「ねえトーマ、きみは病気なんだ」

「び、病気?」

「ほら、僕は医者だろ、だからトーマを治すことができる」

「…………じゃあ、これ、なに?」


いつも饒舌なくせに、これには応えず、深く微笑むだけだった。


僕の頭が警報を鳴らしている。


逃・げ・ろ、と。


「大丈夫だよ。ここで暮らせば、元通りのきみに戻れるから」

「元の、僕……?」

「そう」

「……それって、どんな人間のことを指すの?」

「僕のことをすべて理解してくれて、優しくて、純粋無垢で、きれいなものだけで作られている……トーマは、そんな人間だったよ」


誰のことを言っているんだ?

それこそ、誰かと間違えているんじゃないだろうか。


「…………ねえ、ハルは?ハルはどうしたの!?」

「あー、あいつ、そんな名前なんだ……さあ?」

「さあ、って……あなたも、あの場所にいたよね?もうひとりの子だよ、ハルは?」

「トーマが僕の言うことをきけたら会わせてあげる」

「…………知ってるんだね?」


誰がここで、頷くこと以外をできただろうか。





「違う、トーマはそんなペンの持ち方をしなかった……わざわざきみの持ってるのと同じ作業環境を揃えたんだ、間違う訳ないよな?」

「だから……、描けないんだよ、もう!」

「違う、トーマはそんな口の利き方はしない」


マルスくんは、あの頃の君は誰だったんだ、と言いたくなるほど豹変していた。

僕に無理矢理ペンを握らせて絵を描かせ、違うと言っては蹴りつけた。治療と称して、前の僕と同じ行動を強制的にさせ、少しでも違うことをするとまた蹴った。


彼は何を見ていたんだろう。前の僕と同じって、そんなに大事なこと?

僕自身より?ああ、君はそうなんだろうね。ずっとそうだった。


「ハルなら、そんなこと言わない……僕の絵がほしいなら、あの人みたいに真似して描けば?あなたはなんとも思わないんでしょう!?よくあることだからって!!」

「…………」

「な、なに……?」

「あぁ、トーマ、そんなことをずっと気にしていたのか……」


優しく抱き寄せられ、ぞわりと鳥肌が立った。

ざらついた指先の感触が頬を撫でるのが、湿った吐息が耳に入り込むのが気色悪い。


「僕はね、トーマを励まそうとしたんだよ……あんな下等な人間がすることにいちいち構っていては、君みたいな存在はいけないんだ、とね……」

「……放して」

「ハル……とかいったっけ?あれは何者だ?トーマとの関係は?」

「あなたには関係ない」


ぐ、と首を撫でていた指に力が籠められる。

段々と目の前に光の粒が現れてきた。


「ここでは僕は主治医、君は患者さんだ」

「……くるし、よ」

「僕の言うことを、きかなきゃいけないはずだよね?」

「げほ、げほ………………はい」


それから僕はよくわからない薬を飲まされながら”前の僕”をなぞることを強要された。前と同じ本、同じ服、同じ食べ物、同じ言葉、同じ生活リズム……。


「トーマ、きみだけは本物の天才なんだ。だから、その才能を枯らしちゃいけない」

「…………はい」


どうしても気分が悪く、うまく演じられない日もあった。

だからといって休ませてもらえるわけではなく、無抵抗に暴力に晒された。


「きみは傷のない宝石でなければいけないんだ」

「……はい」


時間の感覚がわからない。

ただでさえ時計がないのに、窓すらないんじゃ知りようがない。


何日ここで過ごしているのか、一生このままなのかもわからない。


ただただ、マルスくんの望む僕の絵を描くように過ごしていた。


そうまでしても、たったの1枚も描けやしなかったけれど。





転機は突然に訪れた。


急に部屋に大量の警官がなだれ込んできて、マルスくんを逮捕した。


「トーマさん!!」

「ハル!!」


ああ、ハルだ。

抱き締めたこのぬくもりだけが、僕に安心をくれる。


「ごめんね、俺もあいつに捕まってて、助けるのが遅れて……」

「ハルこそ、ぼくのせいで巻き込んで……ごめん……」


僕が監禁されていたのは1週間程度らしく、それでも倍くらいの日数で退院できるそうだ。飲まされていたのは市販の睡眠導入剤らしく、後遺症の心配もないらしい。


「さすがにあの惨状は見るに堪えなったようで、報道規制も敷かれたみたいだ」

「そっか……よかった、こんなこと、世間に知られなくて」


ただでさえ生きていけないのに、今度こそ。


「トーマさん、今は眠って」

「ハルは……?」

「俺は眠くないよ」

「ハルは、どこも痛くない?」


僕の手を握ったハルの手は、心地よくあたたかい。

いつもより優しい笑みだったけど、どこか悲しそうで。


「痛くないよ」

「……ごめんね、ハル」

「トーマさんは悪くないんだ」

「僕が……ハルから……離れた、から……」

「……おやすみ、トーマさん」







俺はね、トーマさん。


いずれトーマさんのためになるなら、トーマさんにひどいこともするよ。


あいつの脅威をこの先ずっと遠ざけるためなら、ほんの数日閉じ込めることもする。


でも、これはさすがに予想外だった。

愛した人をこんなに傷つける人間がいるだなんて、思いもしなかったんだ。


「だからこれは、俺の責任」


あと2年だけ待ってくれたら。


「そしたらふたりで、だれもしらない楽園へ行こう」


そこへ行って、ただ好き勝手に暮らすんだ。


おいしいものを食べて、必要なだけ眠って。

好きなだけ遊んで、ふたりでずっと、ずっと。


そうしたら俺、あいつみたいに暴力でなくて、愛でトーマさんを閉じ込めるよ。


出ていけないんじゃなくて、出ていきたくない、って言わせるよ。


「だから、あと2年だけ辛抱してね」


それまで、俺はどんなずるい手を使ってでもあなたを守るから。


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