(5)

「先生、とりあえず書き終わりましたよ」

 神林の声が聞こえて俊哉は目を覚ました。霞みがかっていた意識がじんわりと輪郭を帯び、明瞭になっていく。いったいどれくらい目を瞑っていたのだろう。ずいぶんと長尺の映画を見終わったあとのような疲労感が溜まっていた。

 俊哉は腕時計に目をやり、時刻を確認した。十七時五十五分。彼は目を疑った。てっきり二時間くらいは経っているものだと思っていたが、実際にはたったの五分しか浪費していなかったらしい。もしかすると自分は知らないところで、時間を止める特殊能力を習得していたのかもしれない。試しに時計の円盤を見つめながら頭の中で「止まれっ」と念じてみたが、当然効果はなかった。

 神林が差し出した進路希望調査のアンケート用紙には第一希望の空欄のみ埋まっていた。そこにはやはり私立西海学園高校の名前が記載されていた。俊哉はその紙を受け取り、神林の顔を点検するように見た。どうやら彼の意思は変わらないらしい。

「どうしました? 顔に何かついてます?」と神林は尋ね、手で顔を触った。

 俊哉は首を振った。「いや、なんでもない。とりあえず適当でいいから、ここの第三希望まで埋めといてくれるか?」

「あ、はい。了解っす」

 神林はもう一度俊哉から用紙を受け取り、席に座った。それから手に取ったシャープペンのお尻を顎にとんとんと当て、しばらく目線を宙に浮かせて考えた。西海以外にマシな学校あったっけ、といった具合に。

 のちほど神林が再提出した用紙には、いわゆる県内でもサッカーの強豪校と評価を受ける私立高校が西海学園とは別にもう二つ並んでいた。どうしても彼は公立高校に進学する気はないらしい。

「ほんとにこれでいいのか?」と俊哉は尋ねた。

「どうせ西海学園一択だし。それに先生が適当でいいって言ったじゃん」と神林は言った。

「それはそうなんだが……」、俊哉は言葉に詰まり、頭の後ろを掻いた。「ご両親としては公立高校に進学して欲しいんだろう?」

「それはあくまで親の意見だし。受験するのは俺だし」

 参ったな、と俊哉は思った。「まあ、とりあえず今回はこれで受け取ることにするよ。けど、夏休みに入ったらすぐに三者面談がある。オープンキャンパスだって始まる。そろそろ本格的に志望校を確定させておかないといけない時期だ。だからもう一度、ご両親とちゃんと話をしておいてくれ。いいな?」

 神林は嫌悪感を露わにするように顔を歪めた。「時間が合えばね」

「いや、絶対に話しておくんだ」と俊哉は語気を強めて言った。「本気で西海学園を受験したいなら、ご両親の協力は必要不可欠だ。自分一人の力だけでやっていけるほど、強豪校は甘くないぞ」

 決して脅すつもりはなかったのだが、神林はそれに対して何も言わなかった。そしてつまらなそうに唇を前に突き出し、顎で返事をするように肯いた。その様子を見て、一応は納得してもらえたのかもしれない、と俊哉は安堵した。もちろんその場をやり過ごすために適当に相槌を打っていただけなのかもしれないが。

 俊哉は進路希望用紙を手に席を立ち、職員室に戻る前にもう一度窓の外を覗いた。相変わらずグラウンドには活気が溢れていた。ちょうど変声期を迎えた青い声があちこちで飛び交い、その中で金属バットの打球音とサッカーボールを蹴る音だけが異質感を纏っていた。

「そういえば先生」と神林は後ろから窓際の俊哉に声をかけた。「桃太郎が鬼退治をしたあとの村の話、あれって結局はどうなったんですか?」

「ああ……」、俊哉は間抜けな声を出し、後ろを振り向いた。そしてそのまま十秒ほど口を噤み、頭の中で散らかっていた言葉を整理した。「ときに恐怖というものは、世の中を発展させることがある。例えば地震。日本は世界的にみても地震大国として知られているが、地震が頻繁に起きるからこそ、日本の建物の耐震性は発展したと言える。医療だってそうだ。怪我や病気という脅威から身を守るために、長い時間をかけて進歩してきた」

 いまだ話の全貌が掴めていないのか、神林は眉間にしわを寄せていた。

 俊哉はその後も説明を続けた。「おそらくだが、鬼の脅威を排除した村には平和がおとずれ、ごく自然な流れで人々に安堵感をもたらすだろう。そして人々はいずれ、何の躊躇いもなく警戒心を解き、これまで鬼から身を守るために長年続けてきた対策や注意を、『もう必要ないから』、『面倒だから』という理由でやめるのではないだろうか。つまり、そうすることで鬼退治をしたあとの村は時間が経つにつれて弱体化していくんじゃないか、と先生は思うんだ」

「でも、そうならない可能性だってありますよね」と神林は言った。

「もちろんそれはそうだ。しかし、その村の人たちがこれから先も、まだ見ぬ脅威が襲ってきたときのために、これまで通り一人一人がしっかりとした自覚を持ち、やらなくてはいけない備えを怠らず、さらなる強化を図ろうとするとはどうしても考えられない。人は基本的に必要だと感じないことを行動に移すことを嫌う生き物だからだ。いつの時代も、他人ひとに優しくできる人間はごまんといるが、自分に厳しくできる人間はごくわずかしかいない。世の中の大半はいつだって自分に対して甘い人間で構成されている。先生だってできることなら、毎日働かずにのんびりと暮らしたい。でもそれができないのは、働いてお金を稼ぐことが生きていく上で必要だと知っているからだ。その先には、飢え死にするという恐怖が待っていることを知っているからだ。だから先生は面倒だとは思いながらも毎朝早くから起きて、必死に働いて、ときに健康に気を使っている。神林の前でこんなこと口にするのは教師としてどうかと思うが、どれも好きでやっているわけじゃない。生きていくために、脅威から身を守るために、必要だからやっていることであって、その感覚はきっと村の人たちとあまり変わらない。絶対的な必要性を感じない限り、たいていの人間は努力しないんだ。その点、誰かに無理矢理にでもやらされていたときの方がまだマシだったのかもしれない」

「それ、もしかして先生の経験談かなにかですか?」と神林は尋ねた。

 どうだろうな、と言葉にして俊哉はグラウンドを振り返った。シュート練習をしている傍で、緑の肩ラインが入ったポロシャツを着ていたOB二人は笑いながらボールを蹴っていた。明らかに練習の邪魔になっている。俊哉はその光景を見てため息をついた。

「なんかすごく後悔してるみたいですけど」と神林は言った。

「後悔なんて生きてればたくさんあるさ」と俊哉は言った。後ろを振り返ると神林は筆箱を学生鞄の中に仕舞いながらこちらを見ていた。「いまだに正解か不正解かなんてわかったことはない。でも、あいつらを見ているとやっぱり間違っていたのかなって思ってしまうんだ」

「あの、さっきから何の話してます?」

「人を殴ったことはあるか?」と俊哉は尋ねた。

 神林は怪訝そうな顔をした。「先生はあるんですか?」

「一度だけな」と俊哉は懺悔するような小さな声で打ち明けた。「どうしても断れなかったんだ」

「なんですかそれ」と神林は笑った。

「ほんとだよな。いまになって考えてみると、なんでそんなことしたんだろうって思うよ」と俊哉は言って苦く笑った。「でも、その時はそれが正しいと思ってたんだよな……」、まるで当時の自分を励ますような言葉をつぶやいていた。少しでも気を抜いてしまえば、たちまち胸の中心で渦巻いている後悔の潮の流れに呑み込まれてしまうことを彼は身をもって知っていた。

 長い夏の訪れを知らせるようにチャイムが鳴った。それを合図に二人はやがて動き出す。神林はそそくさと帰る準備を始め、俊哉は窓が施錠されているか点検し、それからカーテンを閉めた。時刻は十八時をまわっていた。

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鬼たいじ(No.12) ユザ @yuza____desu

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