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 音声データはいつの間にかマスコミの手に渡っていた。誰が流出させたのかについては、当事者以外は誰も知らない。あの日、部室の外で拾ったというボイスレコーダーは結局誰のものでもないことが判明し、一旦は部室の中に残しておくことになった。見当たらなくなったのは次の日のことだった。犯人探しは一切行われなかった。というのも、半数の部員はすでにその存在そのものについて忘れていたし、もう半分の部員は薄らとあの音声のことが頭の片隅に引っかかっていたものの、わざわざそれが部室からなくなっていたからといって騒ぎ立てるような者もいなかったからだ。

 それから二日後に週刊誌の記者を名乗る男性がアポなしで学校を訪ねた。取材をさせてほしいとのことだったが、教頭先生はそれを一度断った。事前連絡がない場合の取材については例外なくすべてお断りしている、というその場しのぎの嘘の理由で。これまで彼が教育現場で長年培ってきた危機察知のセンサーがとっさに反応したのだ。嫌な予感がして、取材に対応するための準備の時間が必要だと判断した。自己判断で勝手なことを発言し、事態がおおごとになってしまうのはあまり得策ではないことを彼は知っていた。「迅速な対応よりも、適切な対応を」、それは校長が日頃から口を酸っぱくして言い聞かせていたことだった。

 学校というものはいつの時代もイメージ商売なのだ。インターネットが急速に発達した現代であればなおのこと。進学率、部活動、体育祭、文化祭、制服等の身なり、治安の良し悪し……。一度でも『この学校はこう』という悪いイメージが人々の脳内に植え付けられてしまえば、それをいざ払拭・改善しようと思ったときに莫大な時間とコストがかかる。最悪の場合、そのイメージの重さに耐えられなくなって、押し潰されてしまうことだって珍しくない。大阪にいたっては、三年連続で定員割れした改善の見込みのない府立高校を廃校しようという動きも出始めているくらいだ。教頭という重役の人間にもなると、そのニュースを他人事として見ていられるほど呑気にはしていられなかった。

 教頭はひとまず記者に対して日を改めるよう説得し、それとなく取材内容を聞き出した。おたくのサッカー部の顧問がパワハラしているとのタレコミがありましてね、と記者はほくそ笑みながら口にした。そして明日また伺いますから、と言って彼はあっけなく引き下がった。教頭のセンサーはその淡泊な様子を見てまた危機を察知した。きっと彼は何かを掴んでいるのだ、と。教頭はすぐにサッカー部の顧問である八百万先生を職員室へ呼び出し、話を聞いた。しかし彼は仏頂面で小首を傾げ、「何も知らない」と口にした。そんなはずはない、ちゃんと思い返してみてください。「だから知らないって言っているでしょうっ」、そんなやりとりが何度も繰り返された。たちまち職員室は険悪なムードに覆われた。

 教頭がこの学校に赴任したのはつい二年前のことで、そのときからすでに八百万先生は安津高校の大看板として君臨していた。進学校と言えるほど偏差値が高くないこの学校は良くも悪くも『平凡』という言葉がよく似合い、『家が近いから』という理由以外に人を呼び込めるほどの特色があまりなかった。そんな中、唯一盛んだったサッカー部を率いている八百万先生は貴重な存在だった。実際、彼を求めて受験する学生は大勢いた。安津高校が毎年定員割れしていなかったのは彼による功績とも言えた。しかしながら、そのせいで職員の間には彼に楯突くことは許されないという雰囲気が広がっていた。たとえそれが校長であろうと関係なかった。つまるところ、いち組織として活動していく上で、八百万先生は権力を持ちすぎていたのだ。表向きはいち教員として学校に雇われながらも、何をするにしても彼の機嫌を窺い、実質的な決定権が彼の一存に委ねられているこの学校の組織体制というものは、決して健全とは言えなかったのかもしれない。教頭はそのことに気付いていながらも、それで運営が上手く回っているのであればと目を瞑り、できる限り彼との衝突を避けてきた。

 しかし今回ばかりは教頭も引かなかった。たしかにこれまでも何度か八百万先生に関するクレームの電話は受け付けていたが、それらはどれも人伝てに聞いた噂話だったり、私情からくる恨み節であることが多かったため、ひと通り話を聞いてその場で謝れば済むことだった。ただ、あの記者の去り際の態度からはただならぬ気配が感じ取れた。レストランで提供された料理にゴキブリが入っていたことを、今にも店内に響き渡るような大声で叫びまわりそうな危険な空気感を孕んでいた。一度でもその情報が世に出てしまえば──それがたとえ捏造されていたものであったとしても──世間はそれを真実だと信じ込む。もし仮に皿に入ったゴキブリの写真でも突き出されてしまえば、なおさらそれを否定することは難しい。というか不可能といっていい。つまりそういった事態に巻き込まれたときに、店側がまず最初に優先しなければいけないことは迅速に状況を把握することだった。ゴキブリはどの時点で混入したのか、料理を提供する際に確認作業は怠っていなかったか、過去に同じような事例はなかったのか……、責任者はそれらを事細かに把握しなければならない。

 教頭は学校の責任者としてその職務を全うしようとした。しかし八百万先生はその後も頑なにパワハラについて首を振り続け、見るからに機嫌を損ね、何度も職員室に怒鳴り声を響かせた。「そんなことはあるはずがないっ」、「どこの誰だ、そんなデマカセを言い出したのは」、といった具合に。だから教頭も仕方なくその言葉を信じた。そこまで否定するのであれば、やはり何かの間違いだったのかもしれないと折り合いをつけた。

 だが、次の日にやってきた記者は、例によってゴキブリを混入させた写真を目の前に突き出した。つまりそれが部室の外で発見されたボイスレコーダーなわけだが、そこに録音されていたのはとても同じ教育者とは思えない、八百万先生の酷い暴言の数々だった。教頭は絶句した。ボイスレコーダーの中の八百万先生は堰を切ったように生徒を侮辱し、人格を否定し、脅迫していた。そして時折、大きな物音が聞こえた。何かを勢いよく蹴り上げる八百万先生の姿が容易に目に浮かんだ。記者は落ち着き払った声で「いちおう、今週末の記事には出す予定です。高校サッカー界では全国的にも有名な八百万監督がパワハラをしていたともなると、けっこう話題にはなると思います」と言った。遠回しに、覚悟しろよと脅されている気分だった。「もう、どうにもならないんでしょうか」と半べそをかきながら尋ねた教頭に、記者は無表情で首を振った。「残念ですけど」

 その一件が全国ニュースに取り上げられたのは、週明けの月曜日のことだった。学校の正門には大量のマスコミが押し寄せ、職員室には問い合わせの電話が殺到した。サッカー部の生徒にはあらかじめ状況を説明し、一週間ほど活動を休むように伝えた。くれぐれも記者の質問には答えないように、と釘を刺して。ここで余計なことを言われてしまえば、本格的にこの船は沈んでしまう。まずは学校側の対応を世間に示すことが先決だった。迅速な対応よりも、適切な対応を心がけなければならない。

 しかしその日の夕方のニュースで、サッカー部のキャプテンである光永大善が取材に答えている映像が世に流れた。よりによって、彼ははっきりと八百万先生からパワハラの被害を受けたことがあると答えた。つい先日、八百万先生が二年生の女子マネージャーを不当に辞めさていたという事実も、そこで初めて発覚した。この短く刈り上げられた坊主頭も先生に強制されたものだ、と光永は語った。そして光永は取材中、いきなりカメラの前で口元に貼っていた白い絆創膏を剥がしてみせた。教頭はその光景に目を疑った。勾玉のような形の青黒い痣ができていたのだ。「もしかして、その痣も?」という質問に、彼は小さく肯いた。お前が変な情報をマスコミに流したんだろって先生に怒鳴られました、という言葉を添えて。

 もはや学校側に八百万先生を擁護する余力なんて残っていなかった。後日開いた謝罪会見で、彼が報道陣の前でいくらパワハラを否定しようと、誰も納得する人はいなかった。生徒に向かって罵詈雑言を吐き捨てた音声データが残っていたのだ。実際に殴られたと証言する生徒が現れたのだ。いまさら世間が下した有罪判決が覆るわけがなかった。

 せめてもの慈悲で、教頭は彼に懲戒解雇ではなく自主退職という形をとらせることにした。そしてひとまずサッカー部顧問の後任については、教頭が自ら受け持つことになった。とはいえ、それだけのことで事態が収束するわけではなかった。マスコミへの対応、保護者会への説明、八百万先生が担当していた仕事内容の引き継ぎなど、まだまだやらなければいけない仕事は山積みだった。とても毎日サッカー部の練習に参加できるような状況ではなかった。

 そんな状況を察したのか、光永は「練習メニューや試合のメンバーに関しては自分たちだけでも決められるので安心してください」と言ってくれた。サッカー経験のない教頭にとってその進言はありがたかった。教頭は言われた通り彼らの自主性を尊重し、あまり下手に口出しをしないようにした。それでも暇さえあれば練習には顔を出すように心がけた。今回の騒動で多少なりとも精神的ダメージを負っているのではないかと心配していたからだ。しかし、それも杞憂に終わった。教頭が初めて顔を出したとき、意外にも彼らは和気藹々と楽しそうに練習に取り組んでいた。それまできつく縛りつけられていた縄を解放されたようなその清々しい笑顔を見ていると、自然と彼らを応援したくなった。子供は大人が思っている以上に、強くてたくましい。教頭はそのことを彼らに教えてもらったような気がした。

 その後、十八時から職員会議が入っていた教頭は練習の合間に光永に断りを入れ、一足先にグラウンドをあとにした。そして職員室に向かう途中に昇降口から歩いてくるサッカー部の三年生を発見すると、教頭はすれ違いざまに彼と挨拶を交わした。彼は制服ではなくサッカー部の移動着を着用していた。紺色のポロシャツに緑色の肩ラインが二本と、ジャージ素材の短パンの横にも同様に緑色のラインが二本入っている。デザインは毎年変わっていなかった。教頭はなんとなくその三年生のことをその場に呼び止めた。「委員会?」と尋ねると、彼は歩みを止めて「ああ、はい。そんなところです」と返事を返した。「辛いと思うけど、一緒に頑張ろうなっ」と教頭が言うと、彼は控えめな声で「あざっす」と会釈をして再び歩き出した。教頭はその後ろ姿が部室へ消えていくまでを見届けたあと、踵を返して職員室へと向かった。

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