(3)

 その知らせを聞いたのは週明けの練習が始まる直前のことだった。

 八百万先生は練習前に一度全員をグラウンドの入口に集め、マネージャーを務めていた二年生の渡来は昨日限りで辞めた、と端的に告げた。輪を作っていた部員たちはその事実に驚愕し、動揺を隠しきれない様子だった。俊哉でさえも瞬時には事態を呑み込めず、隣に並んでいた大善を振り返った。おいおい、どういうことだよ。恋人なら何か知ってるんじゃないのか──そんな風に問い詰めたくて、俊哉は周囲からは目立たないよう彼の肩を軽く揺すった。

 俊哉は大善の頭を見てハッとした。ようやく合点がいったのだ。考えてみれば、今朝から様子がおかしいとは思っていた。どこか普段よりも覇気がなく、顔に表情がない。最初は疲れているだけかと思って尋ねてみたが、そうではないと彼は首を振っていた。なにより、その風貌が昨日までとはあまりにも変わっていた。彼は頭を丸刈りにしていたのだ。

昨日さくじつ、あろうことか部員の一人が我々サッカー部の規律違反を犯した。いや、正確には二人と言ったほうが正しいかな」、八百万先生は抑揚のない声でつらつらと説明し始めた。「ちなみに、これはお前らがみっともない試合をしたあとの出来事だ。先生はてっきりみんなが悔しい思いをしてるはずだって思い込んでたけど、どうやら買いかぶっていたみたいだ。さすがに驚いたね。そりゃあ、試合に勝てるわけがないよ」

 それを聞いて俊哉は胸がざわついた。嫌な予感がした。というよりは、もはやそれは確信に近いものになっていた。俊哉は頭の中で神経衰弱をやるみたいに、一枚ずつ順番にカードをめくっていく。唐突な渡来美希の退部、謎の大善の坊主頭、そして昨日は彼女の誕生日──。

 一見、俊哉以外の部員たちからすれば、そこに共通項は見出すことはできないように思えた。しかしそこにはっきりと明言こそなかったものの、八百万先生の「規律違反」という言葉が補足されればどうだろう。その規律の中で生きている彼らが少し頭を働かせれば、すぐに答えまで辿り着くことなんて想像に容易いことだった。そしてそれは俊哉が危惧していた通りになった。その証拠に、人によって個人差はあれど、他の部員たちが次々に事態を呑み込んだようにその視線を大善の方に向けていたのだ。彼はその視線の数々から身を守るように下を向いていた。その代わり、俊哉がその視線をくまなく点検した。

 まじっすか、と目を丸くする者。

 なにやってくれてるんだよ、と責める者。

 付き合うならもう少し上手くやってくれよ、と呆れる者。

 それで坊主になってるのか、と状況に納得する者。

 美希ちゃんってみんなのものじゃなかったんだ、とショックを受ける者。

 いいなあ、と二人の恋愛を羨む者。

 そして、まったくの無関心を貫いている者。

 まもなく、八百万先生は例によってコーナーフラッグに部員を二列で並べた。先頭には当事者の大善と俊哉が並んだ。いくら規律違反だとはいえ、公式戦の次の日にやるようなことじゃない。ただでさえ、今週末にも負けられないリーグ戦が控えているのだ。少しでも無駄な疲労を体内に蓄積させてはいけない。今こそ反旗を翻す時なのではないだろうか。八百万先生に向かって、「このやり方は間違ってます」と思い切って意見する時なのではないだろうか。頭では理解しているのに、いざ彼を目の前にすると俊哉は途端に喉が詰まっているような感じがして足がすくんだ。

「いっぽんめぇ〜っ」

 先頭の二人が放った声が重なった。いざという時に臆病な俊哉は、その声に苛立ちと怒りを預けた。大腿部に力を入れ、足を前に出す。地面を蹴り上げ、大きく腕を振る。およそ百メートルある直線のうち、三分の一ほどの距離を超えたあたりで後続の部員がスタートを切った。八百万先生は反対のコーナーフラッグの横に置いたパイプ椅子に足を組んで座り、頭の後ろに手を回していた。部員が走っている光景をつまらなそうに眺めていた。

 俊哉と大善はほとんど同時にゴールした。その直後に俊哉は念のため八百万先生に目をやった。先生が「終わり」と口にするまでこの罰走は終わらない。やがてこちらの視線に気付いた先生は、何見てんだよ、まだ終わるわけねえだろ、とでも言うように俊哉のことを右手で追い払った。彼はそれに素直に従って、くるりと素早く踵を返し、小走りでスタート位置まで戻った。

 おそらくはこの中の誰かが酸欠で倒れるまで走らせる気なのだろう。八百万先生は決して立ち止まることを許さなかった。人は一度痛い目を見ないとわからない。普段からよく「連帯責任」という言葉を大事にしている彼の教育論は、つねに誰かの身体や潜在意識に恐怖や痛みを植え付けることで成立していた。

 スタート位置に到着した二人は給水する間もなく次の二本目を走り出した。

「にほんめ〜っ」

 一本目を走り終えた部員とすれ違う。そのたびに漏れなく全員がこちら──実際には大善の方──を睨みつけているように見えた。はっきりと口には出さないものの、その目は彼に対する何か物申したげな雰囲気を孕んでいた。

 俊哉は二十本目を超えたあたりから大善に明らかな遅れをとり始めた。なんとか足並みを揃えたくて必死に繰り返し地面を蹴るものの、まるで水の中を走っているみたいに身体が思うように前に進まなかった。小走りでスタート位置に戻るまでに回復が間に合わず、全力疾走をしている間は上手く酸素を取り込めなくなっていた。本数を重ねるごとに、次第に大善との距離も広がっていった。悠々と空を泳ぐカラスにもあっけなく追い抜かれてしまう。呑み込んだ唾が何度も胃液とともに喉元までせり上がってくる。常に口の中は酸っぱい味がした。不快感と倦怠感が全身にまとわりつく。そんな必死に走んないでよ。これ以上差がついたらそれだけ俺が手を抜いてるみたいに見えるじゃんか。だがそんな思いも虚しく、大善はこちらのことなど見向きもせずにその後もますます二人の差を広げていった。その後ろ姿にじわじわと腹が立ってくる。いつもはチームのために全力で走り続けてくれるその頼もしい幼馴染の背中が、だんだんと疎ましくなってきた。

 結局、その日の練習は罰走だけで終わってしまった。

 計、一四三本。時間にしてだいたい二時間半、往復の距離で換算するとおよそ三十キロメートル弱。これまで俊哉が経験した罰走の過去最長記録を大幅に更新した。八百万先生はその間、一言も声を発さなかった。パイプ椅子の上に腰を据え、時折組んでいた足を反対の足に組みかえたり、背もたれに肘をついたりと退屈そうに体勢を変えながら、無表情で不気味に宙を見つめ続けていた。最後の方になるとその姿はフランスの彫刻家・ロダンが制作した『考える人』に見えなくもなかった。

 あたりが暗くなり始めてようやく終わりの合図を出した八百万先生は、締めの挨拶をするわけでもなく、そそくさとグラウンドから去っていった。ようやく解放された部員たちは一様にその場に倒れ込む。それは大量の魚が浜に打ち上げられたような光景だった。

 俊哉は打ち上げられた魚の群れを避け、空いていたゴールポストの横まで移動してランニングシューズとソックスをその場に脱ぎ捨てた。そして大の字に寝転がり、時間をかけながら呼吸を整えた。空気は波のように肺へ押し寄せ、わずかな酸素を体内に残してゆっくりと海へかえっていく。心臓の音はしばらく落ち着きそうにない。俊哉は身体のあちこちに意識を向けた。脚は痙攣を起こし、横腹のあたりが若干っている。全身から噴き出た汗は、雨に打たれたのかと錯覚させるほど練習着をぐっしょりと濡らしていた。湿った肌に地面の砂がひっつく。火照っていた身体はみるみるうちに冷めていった。いつの間にか大善に対する疎ましさなんてすっかり薄れていた。八百万先生に対する怒りなんてどうでもよくなっていた。ようやく終わったのだという安堵感に包まれた俊哉は目を閉じ、かすかに吹く風の音に身を委ねた。

 それから五分ほどが経ち、やがてぽつぽつと身体を起こして部室に帰っていく部員が何人かみられた。それに気づいてまた一人が起き上がり、それを見てまた一人が起き上がる。磁石の先に細かい砂鉄が次々に集まっていくみたいに、グラウンドからは少しずつひと気が減っていった。

 時刻はすでに十九時半をまわっていた。野球部員はすでに全員がグラウンドから引き払っていた。その他もこの時間帯までやっている部活はない。あらかじめ校則で決められていた完全下校の時刻はとっくに過ぎていた。とはいえ、そんなものが八百万先生の率いるサッカー部に通用したことはないのだが。他の先生たちも、この学校の重鎮である彼に対しては強くものを言えなかったようだ。

 次第に紺色の空も濃くなってきた。周りの景色が影に覆われていく。

 俊哉が腰を上げたとき、グラウンドにたった三人しか残っていなかった。彼はその中から大善の姿を探したが、いなかった。どうやら先に部室へ戻っていたらしい。俊哉は濡れていたシャツを脱いで上裸になり、足元に放置していたスパイクとソックスを拾って部室へ向かった。


「え、もう帰ったの?」

 部室に戻った俊哉は部員の一人に大善がすでに帰ったことを聞かされ、困惑した。このあとは一緒に帰るつもりだったし、なにより彼のことが心配だった。大善は真面目で責任感が強い反面、意外と精神的に脆いところがあった。普段はキャプテンらしく堂々と気丈に振舞っているが、それは彼が誰よりもヒトの目を気にしてしまうが故の防衛反応のようなものだった。生きとし生けるものには潜在的に弱肉強食が植え付けられているように、弱々しく映るものはどうしても攻撃されやすい。大善はどこかのタイミングでそのことに気が付いたのだろう。小学生の頃、彼にはいじめられていた時期があった。俊哉以外にそのことを知るものはいなかった。

「なんか言ってなかったか?」と俊哉は尋ねた。

 相手は首を振って答えた。「いや、なにも」

「そういや俊哉は知ってたのか? 大善と美希ちゃんが付き合ってたこと」

 他の部員が俊哉にそう尋ねた。

「知ってた」と俊哉は言った。いまさら嘘をつく必要もないと思った。

「じゃあ、これまで俺たちが美希ちゃんのことで一喜一憂してた様子を、こっそり大善と二人で小馬鹿にしてたってことだ」

 相手のその口調に鋭さこそみられなかったものの、鈍器のような重たさは俊哉にもはっきりと感じられた。失望しているのかなんなのか、彼を含むほとんどの部員たちが俊哉に冷めた目を向けていた。

 その視線を一身に浴びていると、なんとなくだが、大善が自分のことを待たずにさっさと家に帰った理由がわかったような気がした。それから俊哉は首を振って誤解を解いた。「馬鹿にするわけないだろ。たしかにみんなに隠してたことは悪いと思ってるよ。でも俺もあいつも陰で仲間の悪口を言ったり笑ったりするような人間じゃない。みんなが俺たちのことをどう思おうと勝手だけど、それだけは神に誓っても断言できる」

 ここにいる部員たちがその言葉でどこまで納得したのかはわからないが、ひとまずは俊哉に向けられていた冷めた視線の数々が四方に散っていった。先ほど迫ってきた相手も釈然としない表情こそ浮かべていたが、それ以上は何も言ってこなかった。やがて部室の中は重たい沈黙で覆われ、各々が自分だけの世界に入り込んだように、一言も喋ることなく混沌とする気持ちの整理を行いながら制服に着替え始めた。俊哉もそれに倣って短パンとパンツを脱ぎ捨てる。さすがに今からシャワーを浴びている時間はなさそうだった。彼はリュックサックの中からスポーツタオルを取り出し、それで全身をくまなく拭き始めた。

 俊哉にだって大善に対して思うところはあった。結果的には彼のせいで罰を受けたわけだ。彼に対する失意や苛立ちを全く抱かないわけじゃなかった。さらに言えば、存在感が薄れていたとはいえ、罰走で平然と差をつけていく大善を疎ましく思う気持ちは未だに胸の中に居座っていた。しかしそれをわざわざ口に出さなかったのは、大善に対する同情の方がそれを大きく上回っていたからでもあった。きっと同じように考えていた部員は少なくなかったに違いない。必要以上に大善のことを罵倒しようとする者が誰一人としていなかったことが、そのなによりの証拠であるような気がした。おそらく大半の部員は恋愛をしただけで頭を丸刈りにさせられた大善のことを憐れみ、部活を強制的に辞めさせられたであろう渡来美希のことを名残惜しく思い、連帯責任として一四三本も全力疾走を繰り返さなければならなかったその理不尽な状況に納得がいっていないのだろう、と俊哉は思った。そもそも間違いを犯したのは規律違反をした大善ではなく、そんな訳のわからない規律を作った八百万先生なのだ。彼こそが真の悪なのだ。

 俊哉はタオルで身体を拭き上げたあと、リュックから未使用のパンツを取り出してそれを穿いた。それからパイプ椅子の上に折り畳んで置いていた制服を、シャツ、ズボン、靴下の順番で手に取り、手際よく着替えを済ませた。汗で濡れた練習着はビニール袋の中に詰め、できるだけ臭いが漏れないように袋の口をきつく縛った。

 入口の方から物音がしてそちらを振り返ると、直後に勢いよく扉が開いた。シャワーを浴び終えた様子の部員が腰にバスタオルを巻いた格好で部室へ戻ってきた。左手にはシャンプーやボディーソープが入ったプラスチック製の小さなカゴが提げられており、右手には何やら銀色の棒状のものが握られていた。よく見るとそれは家庭用電話機の子機のようにも思えた。

「なにそれ」と俊哉は尋ねた。

「ああ、これな。実は部室の外に落ちてたんだよ」、相手はそう言って、右手に持っていた子機のようなものを俊哉の目の前に差し出した。「もしかしてこれ俊哉の?」

 俊哉は首を振った。「いや、違うけど」

「そうか。まあなんて、普通は高校生が持ち歩くものじゃないもんな」と相手は言った。

「ああ、これボイスレコーダーなのか」、どうりで見覚えがあったわけだと俊哉は納得した。とはいえ実際に肉眼で実物を見たのはこれが初めてだった。「でもこれ、何に使うんだろうな」

「授業の録音とか? 家で復習するための」、相手はそう言ったあとにニヤリと微笑んだ。「せっかくだからちょっと聞いてみるか? エッチなの録音されてたらどうするよ」

「そんなわけないと思うけどな」、そう言いながらも俊哉は知らず知らずのうちに心のどこかで変な期待をしていた。別にエッチな音源を欲していたわけじゃない。むしろ今は何も考えずに笑えるような馬鹿馬鹿しいものを欲していた。

 しかし、その中に録音されていたのは俊哉が全く予想していなかったものだった。ボイスレコーダーから流れ出したその声が部室に響き渡った瞬間、着替えていた部員のほとんどが同時に手を止め、一斉にこちらを振り返った。そしてなぜか彼らは皆、まるで示し合わせたかのように、憎悪に似た嫌悪感をその目に浮かべていた。

 いつの間にこんなものを録音していたのだろう。そして誰が何のためにこんなものを録り溜めていたのだろう。俊哉はその音源に耳を傾けながらしばらく頭の中でその答えを模索してみたが、納得のいく答えは見つからなかった。

「わりい、ちょっとそれ止めてくれないか? せっかく落ち着いてきたところなのに、今あいつの顔を思い出したら怒りで発狂してしまいそうだから」と誰かが言い出した。

 ここにあるはずのなかったその声は、それから数秒後にようやく途絶えた。

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