(2)
足取りが重いのはいつものことだった。
帰りのホームルームが終わると、リードを放された犬のように教室から飛び出していく者もいれば、友達の席に駆け寄ってこれからの予定を楽しげに話し合う者もいた。「コンビニ寄って帰らない?」、「映画観に行こうよ」、そんな声が飛び交うたびに俊哉は奥歯を噛み締めて我慢した。担任の先生は生徒名簿を小脇に抱え、さっさと職員室へ引き上げていた。今日は結婚記念日だから早く仕事を終わらせて愛する妻とお高いディナーに行くんだとか。羨ましい限りだ。
俊哉は学生鞄を肩にかけ、足元に置いていた部活用のリュックを背負った。同じクラスに在籍している何人かのサッカー部員は自然と俊哉の席の周りに集結し、何も言わずとも示し合わせたようにそれぞれの顔を見合わせ、じゃあ今日も頑張りますか、といった具合に深いため息をついて教室を出ていった。
「今日ってやっぱりフィジカルだよな?」
「そうそう。また外周二周を四セットなんじゃね?」
「うわ、まじかよ。さてはあいつ俺たちのこと殺す気じゃん」
「でもさっき
「うそ、まじかっ。これワンチャン、オフじゃね?」
「あるわけねえだろ」
「そうそう。ありえねえよ。それにがっかりさせるようで悪いけどさ、俺さっき駐車場にアウディあるの見たぞ」
「はい終わった。グッバイ、オフ」
「一瞬でも期待させたゴウダ、あとでぶっ飛ばす」
俊哉たちは普段通りの会話を繰り広げながら廊下を抜け、昇降口でのろのろと靴を履いた。開放された扉から外に出ると、銀杏の匂いが鼻先をかすめた。俊哉は昇降口の前で地面につま先を軽く叩きつけ、靴とかかとの間にできた僅かな隙間に指を入れて内側に折れ曲がっていた縁を元に戻した。
部室までの距離はおよそ六十メートルほどある。俊哉たちはその間を一度も立ち止まらずに全力で走り抜けた。いや、正確には走り抜けなければならなかった。それがサッカー部の伝統的なルールだったからだ。仮に誰か一人でもその間を呑気に歩いて渡っている者がいれば、見つかった時点で即座に部員全員が連帯責任を負わされる。いつどこで八百万先生が見ているかわからない。彼らはその恐怖に怯えながら毎日を過ごさなければならなかった。
罰の内容は日によって変わるが、ほとんどの場合は罰走が課せられた。サッカーコートのコーナーフラッグの位置に二列で並ばされ、本数を叫びながらサイドライン際(縦幅の長さはおよそ一一〇メートルほど)を延々ダッシュしなければならない。しかもそれは五本や十本どころの話じゃなかった。多い時は百本目の掛け声がグラウンドに響き渡ることだってあった。陸上部のやつらにはよく「俺たちよりも走ってるぞ」と笑われ、一見、規律の厳しそうな坊主頭の野球部からは「お前ら軍隊みたいだな」と揶揄された。
伝統的なルールは他にもあった。
目上の人に挨拶するときは必ず相手の正面に回り、立ち止まり、頭を下げた後に溌剌とした声を出さなければならない。八百万先生は礼儀に対してものすごく厳しい人だった。少しでも歩きながら頭を下げてしまえば、即コーナーフラッグ行きが決定する。
また、恋愛はしてはならなかった。「学生の本分は勉強と部活に打ち込むことで、色恋にうつつを抜かすなんて百年早い」というのが八百万先生の口癖だった。彼の年齢はすでに四十歳を超えていたが、いまだ未婚だったのだという。あいつ、俺たちのことまで道連れにしようとしてるだろ、とは誰かが口にした言葉だった。部員のほとんどは、その見解はあながち間違っていなのではないかと思っていた。
電車でどこかへ移動する際は必ず制服を着用しなくてはならない。これに関しては理由がわからなかったが、ルールというものは原則的に破った者が無条件に悪と見なされてしまうのだから、従う以外に選択肢はなかった。それが原因なのかはわからないが、俊哉はお洒落というものに全く関心が生まれなかった。
ゲームセンターとボーリング場は出入り禁止。これについては、そもそも年に一週間も休みがないのだから行く暇がなかった。放課後に練習がある平日なんかはもちろんのこと、週末に練習試合や公式戦が入っている日でも、その試合が終われば必ず学校のグラウンドに戻り、自主練という名の強制的個人練習を実施しなければならなかった。例によって八百万先生もグラウンドに顔を出す。その目から逃れることなんてできなかった。それは怪我をしているリハビリ組も例外ではなかった。下半身が使えないなら上半身を鍛えろ、松葉杖をついているならマネージャーと一緒に水を汲め、とにかくやれることを探せ、そもそも怪我なんて一週間で治せ。八百万先生は何よりも休むことを嫌う人だった。これが会社なら即刻、労働基準法に引っかかっていたことだろう。
お前のためだから、という大義名分を背に生徒に手をあげることもあった。ある時は足を思い切り振ったことも。最後には決まり文句のように「俺だって本当はこんなことしたくないんだよ」と付け加えて。誰もそんな言葉に「はい、じゃあ仕方ないですね」と納得するはずがないことはわかりきっているのに。
それでも毎年結果だけは残していた。
高校サッカー界には大きく分けて主要大会が三つあるが、そのうち夏の総体についてはすでに六月に行われた県大会で優勝し、先月、岐阜県で開催された全国大会に出場を果たしていた。残すは来月から県予選が始まる冬の選手権大会、そして年間を通して行われる
高円宮杯に関しては三大大会の中で唯一リーグ戦方式で行われ、高校サッカー部のみならずJリーグの下部組織や街クラブのユースチームにも参加資格が与えられていた。また、上から順にプレミアリーグ(一部リーグ)、プリンスリーグ(二部リーグ)、各都道府県リーグ(三部リーグ)といった具合に分類され、毎年各リーグ間での昇格・降格も行われていた。とはいえ、やはりセレクションとスカウトによってメンバーを揃えているJクラブのチームと、主に受験で部員が集まる高体連のサッカー部との間に地力の差があるのは明白で、プレミアリーグに在籍しているチームは半数以上がJクラブだった。つまるところ、全国の強豪校と称されるサッカー部のほとんどはプリンスリーグに属していた。逆を言えば、プリンスリーグに属していれば強豪校としてある程度は名が通るのだ。
そして現在、俊哉が通っている県立安津高校サッカー部はプリンスリーグの七位にいた。残りの試合数はあと六つ。優勝争いは難しいかもしれないが、上位に食い込むことはまだ可能だった。できることならよりいい順位で後輩にバトンを繋ぎたい。だが、悠長に上ばかり見ている場合でもなかった。降格の可能性も残していたからだ。彼らがこれからも強豪校という看板を背負い続けたいのであれば、負けられる試合なんて一つも残っていなかった。
「ういーっす」
部室の扉を開けると、すでに練習着に着替え終えて出入口付近のパイプ椅子で待機していた大善は、俊哉に向かって軽く手を挙げた。彼は総勢百人近くいるサッカー部を率いるキャプテンで、俊哉とは小学生の頃からの幼馴染だった。
「おつかれー」、俊哉はそう言って室内を斜めに区分けするように紐で吊るされたビブスの暖簾をくぐり、大善の隣に荷物を置いた。「そういや聞いた? おとといの花火大会のこと」
大善は首を振って尋ねた。「知らない。なにそれ」
「一年のタカハシがさ、体調悪いから病院に行くって言って練習休んだのに、女と花火大会に行ってたらしい。そこを偶然おれらのクラス担任が目撃したんだってさ」、俊哉は声のトーンを落として喋った。「いちおう、八百万先生には言わないでいてくれてるらしいけど、今後気をつけた方がいいぞって忠告されたよ」
「まじか、俊哉んとこの担任に感謝だな」と大善は言った。
「ほんとそれな。危うく俺らも死ぬとこだったよ」と俊哉は言った。「いや、まあ百歩譲って彼女作るのは構わないけどさ、花火大会みたいに人が集まるようなとこに行けば、誰かと鉢合わせするかもしれないって普通わかるじゃんか。練習サボって遊ぶにしても、せめて家の中にするとかさ。もう少し自重してくれればよかったのに」
大善は顔色ひとつ変えずに言った。「まあ、タカハシの気持ちもわからんでもないんだけどな」
俊哉は反応に困って苦笑いを浮かべた。嘘をついているようには見えなかったからだ。俊哉は周囲を見回して誰もこちらの話を聞いていないことを確認し、大善の耳元に顔を近づけた。「美希ちゃんとうまくいってないのか?」
ソックスの中にすね当てを挿れていた大善は俊哉に目をやり、それから首を振った。「ううん。うまくいってるけど、なんで?」
「いや、なんとなく。もしかして美希ちゃんが『花火大会に行きたかった』とか言ってきたんじゃないかなって思って」
「たしかに花火大会の話題にはなったこともあったけど、それは向こうも無理だってわかってることだしさ」と大善は言った。
「そっか」、俊哉はそう言ってパイプ椅子に座った。
下級生の挨拶の声が次々に部室の前を通過していく。百人以上の部員が在籍していたため、部室は学年ごとに分けられていた。相変わらず圧の強い挨拶だなと俊哉は思った。それから彼はリュックの中から練習着を取り出し、制服を脱ぎ、パンツ一丁になってからその上に短パンを穿いた。短パンの下にスパッツを穿いている者もいたが、俊哉は過去にそれで股擦れを起こしたことがあり、それ以降は一切使わなくなっていた。何人かの同級生が俊哉の腹筋を見て、えらい割れてんな、と目を丸くした。ここ最近、俊哉は暇さえあればトレーニングルームに入り浸っていた。その成果が出ていたのかもしれない。自分ではいつも見慣れていたせいか、その小さな成長というものに気付けなかった。
「まさか女でもできたのか?」と向かいからイツキが小指を立てて茶化した。
「んなわけねえだろ」、俊哉は笑いながらその疑いを一蹴した。
そう言った後で自然と視線が大善に向いてしまうのは、そういう話題に限って彼がいつも伏せ目がちに口を噤んでいるからだった。本当は少しくらい会話に混ざってもらった方が不自然じゃないのだが、当人はそれすらできないくらいに慎重になっているのだろう。俊哉以外、この中で大善に恋人がいることは誰も知らなかった。しかもその相手は二年生のマネージャーだった。ただでさえ八百万先生から恋愛を禁止されている中で、その模範となるべきキャプテンの大善が部内恋愛をしているだなんて、軽はずみにも打ち明けられるはずがなかった。八百万先生の耳に入ってしまえば、いくら大善がチームの中心人物であろうと罰は免れない。下手すれば多くの部員からの信用も失いかねなかった。
なにしろ、大善が付き合っているマネージャーの
「そういえば今週末のリーグ戦って午後からだっけ?」
「たしかそうだよ。アウェイで十五時キックオフだったと思う」、ピチピチのアンダーシャツを着ながらヤストがそう言った。「試合終わるのがだいたい十七時だから、おそらく現地解散になるんじゃないかな?」
「さすがにその時間で学校集合はないよな? もしそんなことがあったら俺、今度こそ教育委員会に訴えてやるから」、俊哉はソックスを履きながらそう言った。とはいえ、その言葉をこの中にいる全員が信じていないことを彼は知っていた。実際、彼自身もそんなことするつもりは毛頭なかった。ただ単純に八百万先生に対するサッカー部員共通の敵意を示すことで、みんなの共感を得ようと思っていただけだ。俊哉は教育委員会という組織が県内のどこに事務所を構えているのかすら知らなかった。
「マネージャーって誰が来るかな? 美希ちゃんだったら頑張れるんだけど」
誰かがそう言った声が聞こえてくると、俊哉はとっさに大善を守らなければいけないという防衛本能に駆られ、つい身構えてしまった。どこから危険球が飛んでくるかわからない。実際に野球場へ行ったことはないが、「ファールボールにご注意ください」というアナウンスが聞こえてきたようだった。
「さっき二年の奴から聞いたんだけどよ、美希ちゃんってリーグ戦の日が誕生日らしいぞ」とヤストが言った。
「まじかよ。じゃあ試合終わった後にでもみんなで焼肉誘わね?」、イツキは閃いたように手を叩いてそう言った。「俺、めっちゃ美味くて安い店知ってるんだよ。もちろん、八百万の野郎も絶対に知らないような店だから安心してくれ」
俊哉は横目に大善の表情が若干険しくなった瞬間を捉えた。彼の他には誰もその機微に気付いていない。部室内は瞬く間に異様な盛り上がりをみせた。
「え、じゃあ俺も行きたい」
「俺も俺も」
「うわー、最悪だ。その日は親戚と飯食う約束してたんだ」
「大体いくらくらいかかる?」
「ひとり四〇〇〇円あれば足りるだろ」
「俺はパス。見つかったらシャレになんねえもん」
「八時くらいに予約してもらうと助かるわ」
「ほんとに大丈夫かよ。リスキーじゃね?」
「心配ないって。だってその店、俺んちの親戚がやってるとこだから」
「うわ、最強じゃん。勝ったわ、これ」
「んー、でも俺は遠慮しとこうかな。なんだかんだで怖いし」
「じゃあとりあえず十五人くらいで予約しとけばいいかな?」
話がまとまり始めた頃合いに俊哉は思い切って口を挟んだ。
「ちょっといいかな?」、俊哉はちらっと大善の顔を盗み見た。相変わらず彼は口を噤んだまま、まるで他人事のようにそっぽを向いていた。あくまで自分とは何の関係もないフリを貫くつもりらしい。昔から大善はこうと決めたことはやり抜く頑固な男だった。いくら彼が膝の上で拳を強く握り締めていようとも、俊哉はそれに見て見ぬフリをした。「美希ちゃんもさすがに誕生日の当日は色々と予定が入ってるだろうから、そういうのはまた違う日でもいいんじゃないか? ほら、先輩に誘われたら空気読んで断れないかもしれないし」
しばらく部室の中に重たい沈黙が居座った。発案者であるイツキは人差し指でこめかみを掻き、何やら考えている様子だった。
俊哉は追い打ちをかけるようにこうも続けた。「いや、まあ本当のところはさ、俺、その日はちょっと用事があって参加できそうにないんだ。だからお願いっ。別日にしてくれ」、俊哉はパイプ椅子から降り、その場でイツキに向かって土下座のポーズをとった。額を地面に叩きつけ、腹の底から大声で叫ぶ。「頼むっ、この通りだっ」
「どんだけ必死なんだよっ」、イツキはそうツッコんで勢いよく噴き出した。
それからまもなく他の部員たちの笑い声が聞こえ始め、俊哉は頭を上げた。さらに彼は天上にいる神様に祈るように顔の前で手のひらを擦り合わせ、弱々しい声でイツキ様の慈悲を乞いた。「お願いします。お願いします」
「しゃあねえなあ。じゃあ今回は、俊哉が可哀想だから日を改めてやるよ」
「まじっ?」、俊哉はその興奮を表すように声を弾ませ、目を見開いた。
イツキはそれを見て笑いながら肯いた。「まあ実際、当日は俺んちでさえ家族が祝ってくれたりするもんだからな」
「ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」、俊哉はそう言ってイツキに向かって丁寧に頭を下げた。
そのやりとりに周囲からはまた一段と大きな笑い声が起こった。なんとかうまく誤魔化せたようだ。胸の中には一定の達成感と安堵感が同居していた。ひとまずはこれで大善も安心しただろう。俊哉は振り返って大善の顔に目をやった。彼は膝の上に手を置いたまま親指を立て、こちらに向かって口パクで声には出さずに「あ・り・が・と・う」と言った。
それに俊哉はさりげなく片目を瞑り、「た・の・し・め・よ」と口パクで返事を返した。我ながら機転のきいたナイスフォローだったのではないか、とほくそ笑みながら。
この時はまさか、週明けの月曜日に美希ちゃんが退部届を提出することになるとは、ここにいる誰一人として想像していなかった──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます