鬼たいじ(No.12)
ユザ
(1)
今年は例年よりも早く梅雨が明けた。
放課後、俊哉は教室に残り、神林が進路希望調査のアンケート用紙を書き上げるのを待った。提出期限はすでに過ぎているが、わざわざ神林を急かすようなことはしなかった。彼も彼なりに必死で悩んでいるのだ。中学三年生とは総じてそういうものだと俊哉は思っていた。
高校受験とは、大概の人にとってこれから歩んでいく道を自ら選ぶ最初の機会であることが多い。初めて大きな岐路を前にして立ち止まり、悩んでいる子供たちを目の当たりにするこの時間が俊哉はなぜか嫌いじゃなかった。むしろ、これが教育現場の醍醐味といってもいいくらいに。
発展途上の稚拙な想像力で漠然と将来を思い浮かべ、現状の学力に頭を抱え、そこから必死にもがいてより高みを目指す者もいれば、無理はせずに身の丈に合った高校で折り合いをつけようとする者もいる。そのどちらが好ましくて、どちらが悪いなんてことは全くない。誰がどんな答えを出すにしろ、結局はいつも隣の芝生の方が青く見えてしまうものなのだから。それがこの世の真理で、あらかじめ天から提示された決定事項なのだと俊哉は思っていた。
どんなに晴れ渡っている日でも建物の裏には必ず影ができるように、誰だって過去に後悔や迷いを残さないまま生きていくことなんてできない。時々後ろを振り返っては、足を踏み入れることのなかった曲がり角の先にあったはずの景色を想像してしまう。そこはここよりももっと綺麗に舗装されていて、眺めがよかったのかもしれないな、といった具合に。とどのつまり、悩むという行為に本質的な意味などないのかもしれないが、真剣に自身と向き合ったその時間が何よりものちの人格形成に大きく影響を与えることだってある。こねた粘土を丸めたり、伸ばしたり、くっつけることで、少しずつそれっぽい輪郭を帯びていくその作業工程は見ていて飽きなかった。
神林は机の上に右肘をつき、指に挟んだシャープペンシルをくるくると回していた。唇を前に突き出し、眉間にしわを寄せながら左手に持ったアンケート用紙をじっと見つめている。ひとつ短いため息をつき、彼は俊哉に目を移した。
「田中先生はどう思います?」
「なにが?」と俊哉は尋ねた。
「いや、だから
「ご両親はなんと?」
神林は首を振った。「うち、結構金ないんですよね。この前、親ともちゃんと話してみたんですけど、泣きながら母親にこう言われました。『サッカーなんてどこの高校行ってもできるでしょ』ってね」
普段から子供たちを導くことを生業にしていたとはいえ、他所様の家庭事情に遠慮なく意見できるほど、教師という立場の人間は決して全知全能ではなかった。あるいは、行く末を予見できる凄腕の占い師でもなければ、社会的に立派な功績を残した偉人でもない。四年制大学を卒業してそのまま教員免許を取得した俊哉は、社会というものにほとんど触れることなく教師という職に就いた。しかも彼はまだ独身で、親の気持ちなんて理解できたもんじゃない。ただでさえ手持ちのカードが少ないのに、それをいくら目を凝らして眺めたところで、欲していた適切な答えが浮かび上がってくるわけじゃなかった。
俊哉はしばらく何も言わなかった。クラスの担任として神林家の家庭事情はある程度把握していた。たしかに、とても高校のうちから私立に通わせてあげるほどの蓄えがあるとは思えなかった。しかも西海学園のサッカー部といえば、毎年かなり高額な部費を払わなくてはならないことで有名だった。人工芝と天然芝のコートが一面ずつあり、トレーニングルームにはプロ選手たちも実際に使用しているという最新鋭のマシンが揃っている。おそらくその維持費や導入費が含まれているのだろう。さらに長期休暇期間には姉妹校があるヨーロッパに一週間ほど遠征していた。それだけで年間ウン十万はかかる。神林の両親の立場になって考えれば、西海学園への進学に首を縦に振ることはまずあり得なかった。だがその一方で、神林の本心を察していながら、それをあえて無視することもできなかった。
こういう場合、教師は互いが納得できる折衷案ないしは妥協案を見出すことが至上命題であると言える。つまり、両者の意見を汲み取ったところでいうと、それは国公立でサッカーが強い高校ということになるのだろう。俊哉は頭の中でそれに当てはまる高校をいくつか思い浮かべ、同時に神林の過去の成績表を記憶の中から手繰り寄せた。それらを順に照らし合わせ、入学が困難な高校には頭の中で二重線を引いていく。そして生き残った高校名を黒板に書き記し、神林に提案した。
しかしそれでも神林はなかなか首を縦に振ろうとしなかった。「正直、俺の中ではもう西海学園一択なんですよね。それに先々週、実は親に黙ってタカシたちと一緒に西海の練習会に参加したんです」
タカシというのは神林と同じ三年生で、サッカー部の仲間だった。彼が以前から西海学園に進学すると公言していたことは俊哉も把握していた。彼の父親が外資系企業に勤めていて、家が金持ちだということも。
「その時に西海学園のコーチから直々に誘われたんです。『きみ上手いね、よかったらウチ来なよ』って」、神林はその時のことを思い出したのか、嬉しそうに口元を緩めながらそう言った。
「特待生として?」と俊哉は尋ねた。
「いや、あくまで一般で受験する形にはなるみたいなんですけど。でも、受験してくれたら絶対に入れてくれるって言ってました」
「そうか」、まあよくある話だなとは思いつつ、俊哉はそれをあえて口には出さなかった。おそらく神林はそのコーチが口にした常套句を真に受けているのだろう。濁りのないまっすぐな目をしている子供ほど、一度でも信じ込んでしまうとそれはテコでも動かなくなってしまうことを俊哉は知っていた。要は騙されやすいのだ。
そもそも定期的に中学生の練習参加を許している高校──特に私立高校──というのは、まだ進路先の決まっていない才能の原石たちをいち早く確保しようとすると同時に、巻き網漁法のように一度に大量の新入部員を確保することを目的としていることが多い。そして後者の人材については、実のところ戦力として期待されていることはほとんどなく、あくまで資金調達としてしか見なしていない。実際、神林に声をかけたというそのコーチもあくまで一般生として入学することを前提としている。本当に欲しい人材というのは大抵の場合、後日、改めて保護者を含めた話し合いの場を設けることが多い。『ウチ来なよ』なんていう軽い誘い文句だけで済ますはずがないのだ。
神林にとっては少々酷な話ではあるが、それはまだ彼が何も知らないだけで、社会にはそういった嘘と打算が混濁した甘い誘惑が至るところに蔓延っていた。出来れば彼にはそんな現実を見て欲しくはなかった。それを知るのはもっと後でいい。歳を重ねればそんな汚い現実は嫌というほど目の当たりにするのだから。
俊哉は神林が自ら折衷案の方へ歩み寄ってくれるような道筋を考えた。どうすれば彼が納得いく形で方向転換してくれるだろうか。そっちの道へは進まない方が賢明だと伝えることができるだろうか。なかなか良いアイデアが浮かんでこないまま時間だけが過ぎた。俊哉は何気なく腕時計に目を落とした。
「田中先生、いま何時?」と神林が尋ねた。
「いま?
神林は首を振った。「ただ訊いてみただけです。先生がなんだか難しい顔してたから」
俊哉は一回り以上も歳下の生徒に気を遣われていたことがおかしくて、つい笑ってしまった。「ごめんごめん。ちょっと色々と考え事してたんだよ」
「考え事?」
「ああ。色々とな」、俊哉はそう言って肯いた。
「学生だった頃の思い出とか?」
「学生だった頃か」と俊哉は復唱した。そうだな、と彼は言い残して教室の窓際に移動した。それから窓を開け、校庭を覗いた。ついこの間過ぎ去ったはずの梅雨前線がうっかり置き忘れていたのかのような、湿気を含んだ生ぬるい風が顔に当たった。視界の隅で室内の黄緑色のカーテンがかすかに揺らぐ。二階の高さにある三年生の教室からは校庭の様子が一望できた。
左奥の角には緑色のバックネットがそびえ立ち、扇型に黒土を敷かれている。野球部のグラウンドだ。センターを守っている生徒のすぐ後ろを次々に陸上部員たちが走り抜けていく。ちょうど陸上部の二〇〇メートルトラックと交わっているのだ。トラックの内側には砲丸投げや走り高跳びの選手が練習を繰り返していた。
さらにその手前側には正規のサイズよりはいくらか小さめのサッカーコートがあった。つい先月まで神林がボールを蹴っていた場所だ。すでに二年生を中心とした新チームが本格的に始動していたようだった。顧問の先生の姿は見えない。そういえば体調不良で昨日から休んでいたんだっけ、と俊哉は思い出した。聞くところによると、彼らは来年こそ県のベストエイトに食い込もうと意気込んでいるらしい。その熱量が練習風景からも伝わってくる。今年の中体連大会は地区予選こそ突破するものの、県予選の一回戦で敗退していた。
「先生も昔はサッカーしてたんですよね?」
いつの間にか神林は俊哉の隣に移動していた。彼はどこか悔いるような眼差しで後輩たちの姿を見下ろしていた。まだ何かやり残したことがあるかのように。
「まあな」と俊哉は返事をした。「これでも高校生の時には夏の総体で全国大会にも出たことがある」
「え、まじっすか?」、神林はそう言って振り向いた。鳩が豆鉄砲を食ったような目をしていた。そしてどこかに米粒の一つでもくっついているのではないかと点検するように、あらゆる角度から俊哉の顔を見回し始めた。
「ほんとの話だよ」と俊哉は言った。
「先生って意外とすごいんですね」
「意外と、ってなんだよ」、俊哉はふんっと鼻を鳴らした。「でも、たしかに胸を張れるような思い出じゃない」
「いやいや、全国大会は十分誇らしいことでしょ」
俊哉は首を振った。「いずれにしても、もう二度とあの頃に戻ろうとは思わないな。今考えてみれば、あの環境はやっぱりちょっと異常だった」
「ふうん」、神林は訝しげな面持ちで肯いた。「どこの高校に通ってたんですか?」
俊哉はその質問には何も答えず、しばらく黙ったまま校庭を眺めていた。何か一つのものを注視するわけでもなく、全体を俯瞰的に捉え、視界の中を不規則に動き回っている黒い点々の様子を観察していた。地上に蔓延しているあの時の熱量はもう微塵も感じられなくなっていた。俊哉はそのことに少しだけショックを受けた。そして改めて実感する。もう自分は向こう側の人間ではないのだと。
廊下から女子生徒の声が聞こえてきた。それはやけに楽しげな話し声で、どこか懐かしさを覚える響きだった。西日の眩しさに俊哉は目を瞑り、静かに深呼吸をする。不意に瞼の裏に映り込んだ遠い記憶の数々が、風を受けた本のようにぱらぱらと捲れ始めた。昨日のこと、一週間前のこと、一ヶ月前、一年前、三年前、大学時代とその映像は過去へ遡っていく。映画の『ベンジャミンバトン』を見ているかのようだった。俊哉は席が一つしかない小さな映画館の中でその大きな画面を眺めていた。しかしながら、画面に映る若かりし頃の自分が何を考え、胸の中でどんな感情が渦巻いていたのかを正確に汲み取ることはできなかった。若干古カビが生えたような湿っぽい匂いがする館内で、昔起こった出来事が連続的に紡がれていくだけのその映像は延々と流れていた。
「うわ、あれってもしかしてコウジ先輩とミツヤ先輩? めっちゃ髪染めてるじゃん」
神林の声で俊哉は目を開けた。窓の外を見下ろすと、サッカーコートの脇からひょっこりと姿を現した金髪と茶髪の男二人組が目に入った。二人とも全く同じデザインのポロシャツと短パンを身につけていた。金髪の方はやたらと襟足が長く、耳に銀色のリングをぶら下げていた。茶髪の方は短髪で後ろと横を刈り上げており、整髪料で逆立たせた頭頂部はもはや鳥山明の漫画に登場するキャラクターを連想させた。彼らはどちらもここの中学校出身の卒業生で、サッカー部のOBだった。髪型がまるで似合っていない。俊哉は彼らからそんな印象を受けた。いわゆる高校デビューというやつだろう。彼らはずいぶんと偉そうに、肩で風を切るようにしてずけずけと校庭を歩いていた。
「神林もああいう格好に憧れたりするものなのか?」と俊哉は尋ねた。
「いやいや憧れって……」、神林は数秒の間を空けてから言った。「ああいうのが一番嫌いですよ、俺」
何の包みにも隠そうとしないそのむき出しの意見に、俊哉はつい笑ってしまった。「別にそこまではっきり言えとは頼んでない」
「だって本当に嫌いだから。ああいう、だらしない格好でテキトーにサッカーしてる人たち」
「テキトーに、か」と俊哉は復唱した。やっぱりそう見えてしまうよな、と彼は思った。「でも人は見かけによらないって言うだろ?」
「だとしても、俺はああいう風にはなりたくないな。なんか、かえって弱そうに見えて格好悪いんだもん」、神林は軽蔑の眼差しをかつての先輩たちに送っていた。「絶対にああいう緩い学校には行きたくないです」
「たしかにあそこのサッカー部はここ十年近く暗黒時代が続いてるからな」
「そうなんですか?」
俊哉は肯いた。「県リーグでは毎年のように最下位争いしてるし、この前の総体は県予選の一回戦なんか、見てるこっちが恥ずかしいくらいの大敗かましてたよ。すっかり負け癖が染み付いているというか、勝つ気がないというか……。ともあれ、神林の希望にはそぐわないだろうな」
神林は意外そうな顔をした。「よくそんなことまで知ってますね。っていうか、けっこう辛口だし」
「意外だったろ。まあ、高校サッカーは好きでよくチェックしてるんだ」と俊哉は言った。それから短く息を吐き、校庭を歩く卒業生二人の背中を目で追いかけた。彼らはゴール裏に回ってキーパーをしていた後輩にちょっかいを出していた。いい迷惑だな、と思いながら俊哉はその様子を眺めていた。
先日、俊哉が目の当たりにした彼らの試合は見るに耐えないものだった。チームのために汗をかいて走ろうとする者は一人もおらず、ミスしてもヘラヘラと薄笑いを浮かべ、それに腹を立てている者も見当たらなかった。そこには俊哉が全く知らない光景が広がっていた。目を背けたい現実だった。見ているだけでも苦しかった。罪悪感のようなものがやがてうっすらと胸に込み上げた。
次第に彼らのことが可哀想に見えたのだ。警察のいない無法地帯に住んでいれば信号を守る人なんかいないのはごく自然なことで、いずれ社会の秩序やモラルというものは崩壊し、気づいた時には取り返しがつかないくらいに集団としての機能を失っている。彼らはいわばそんな環境に侵されていたのかもしれない。誰ひとりとして、緩みきったボルトを締めるための六角レンチを持たされていないのだ。その責任を彼らに押し付けてしまうのはあまりに酷なような気がした。責任があるとすれば、それは不用意にボルトを緩めた当事者にこそ非があるのかもしれない。そんな風に考えているうちに、俊哉はむしろ彼らが被害者であるようにも思い始めていた。
「話変わるけど、田中先生って高校時代に彼女とかいた?」と神林が尋ねた。
俊哉はその声でふと我に返った。「え、いや、いなかったよ」
「絶対にうそでしょ」、神林は目を細めてニヤリと笑った。「だって全国大会に出られるくらいサッカー上手かったんでしょ? モテないはずがないよ」
「でもほんとに一人もいなかったんだよ。そもそも、サッカー部のルールに『恋愛禁止』っていうのがあったくらいだからね」
「それまじ? いまどきアイドルでも結構恋愛してるよ?」
「まあ、実際はコソコソ隠れて彼女作ってたやつとかいたんだけどな。でも俺はそこまで器用な人間じゃなかったから」と俊哉は言った。「なんだ、神林はいま彼女が欲しいのか?」
神林は勢いよく首を振った。「いや、別にそういうことじゃないんだけど」
俊哉はそれ以上野暮な詮索はしなかった。神林の表情を横目に見ただけで、それが恋をしている顔だということはすぐに察した。恋くらい誰にも縛られずに好きなだけするといい。
空を見上げてみると、夕日を浴びて桃色に染まった雲が川を流れるように宙に浮かんでいた。どんぶらこ、どんぶらこ、と俊哉はそれを見て口ずさむ。その中を一羽のカラスが泳ぐように横切った。俊哉は半ば衝動的にそれまでの会話とは関係のない質問をしてみた。「鬼退治が終わったあと、村はどうなったと思う?」
「え、いきなり何の話ですか?」、神林は眉をひそめて俊哉の顔を見上げた。
「桃太郎だよ。さすがに知ってるだろ? 桃から生まれた桃太郎」
「そりゃまあ、知ってますけど……」
「村の人たちにとって、鬼の存在は日々の平穏を壊す巨悪そのものだったわけだよ。それを桃太郎がものの見事にやっつけてみせた」、俊哉は物語を九割ほど端折って結末だけを抽出して話した。「そのあと、村はどうなったのかなって」
「続きがあるんですか?」と神林は尋ねた。
「あったとしたら」と俊哉は言った。
返答に窮した神林はそれからしばらく顎に手を当て、物語の続きについて考え始めた。その様子を横目に、俊哉はすぐ近くにあった椅子を手繰り寄せて腰を下ろし、返答を気長に待つことにした。
やがて脳内に十分な酸素が行き届かなくなってしまったのか、次第に頭がぼうっとし始めた。反射的に大きく口が開いて欠伸をすると、一度に大量の空気が肺の中に流れ込み、同時に過多と判断された空気は肺の中から潔く外へ飛び出していった。俊哉はさっきまでと比べていくらか重みの増した瞼を、懸命に持ち上げながら腕時計に目をやった。時刻は十七時五十分を指していた。遠くでカラスが不吉な声で鳴いている。するとその直後に強烈な睡魔が俊哉を襲い、彼はそれに抵抗する間もなく目を閉じた。
いつの間にか俊哉はまた一人だけの映画館の中に座っていた。大画面に映っている過去の映像は、高校三年生だった頃の自分の姿で一時停止されていた。館内には相変わらず古いカビ臭が漂っていた。俊哉は後ろの映写室にいるであろう誰かに向かって合図するように手を挙げた。するとやがて、止まっていた映像は再び流れ始めた。
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