第15話 ヤンの祖母の過去



 

 日清戦争で日本が勝利した結果、下関条約によって台湾が清朝(当時中国大陸にあった国家)から日本に割譲された。それを日本統治時代と言う。


 日本統治時代の台湾は、1895年(明治28年、光緒21年)4月17日から、第二次世界大戦が終結して日本の降伏後、中華民国政府の出先機関である台湾省行政長官公署によって台湾の管轄権行使が開始される1945年(昭和20年、民国34年)10月25日までの時代である。


 

 事件の鍵を握るヤンを知るには、まず台湾人の祖父母の話をして置かなければいけない。

 

 祖母の婚約者は日本の兵隊にとられて、南方へ行っていた。


「わたしは家でお父さんの仕事を手伝っていました。すると日本人の警察が呼びに来て、仕事があるから来なさいって言いました。兵隊にご飯をつくったり、破れた着物を縫ったりする仕事だと言われ仕方なくついて行きました。警察の人が、いまは戦争で男も女も国家総動員法だから来なくてはいけないと言うので、働きに行くことにしました。日本兵がたくさんいてわたしのほかに女の人も何名かいました。わたしたちは朝起きたら顔を洗って、ご飯をつくって兵隊に食べさせ、それから洗濯して、破れた着物を縫いました。だが、仕事はそれだけではなかった。夜になって呼ばれて、部屋に入れられて日本兵の相手をさせられた。泣いてばかり。昼の仕事は楽でした。昼間は着物を縫って、洗濯して、この仕事は楽でした。でも夜は死んでるんです、死んでいる気なんです。逃げたいけれど道がわからない。それに門のところに兵隊が立っているから、逃げたら鉄砲で撃たれるでしょう。妊娠したこともわからない。食べ物を食べても吐くから、可笑しいとは思ったが、栄養事情が悪く気付かずに陣痛が来てトイレで出産しました。仲の良いお友達に協力してもらい育てていたが、バレてしまい赤ちゃんは強引に兵士に引き取られ、それきり会えず仕舞い。多分邪魔な赤ちゃんを鉄砲で撃ち殺す場面を見たと言っていた友達がいたから、ゥゥウワ~~~ン😭ワ~~~ン😭殺されていると思います。今でも涙が出ますよ。あぁ…こんな話…すみませんね。更には結婚していた女の人は、討伐から帰った兵隊から無理矢理セックスを強要され、絶対操を守りたかったので抵抗したら胸を刃物で一突きされ、バンソコウを貼っていた。それなのにまた兵士が襲ってきた。恐かったが、言うことを聞かなかったので、兵士は手首をひねって、部屋の中から外へ投げとばした。手首は骨が折れて、バラバラになっている。尚も抵抗したら軍靴で蹴られ、肉がさけ、骨が見えた。朝から夜まで兵隊を相手にした人数は15人以内だった。たが、討伐から帰った兵士が多い日は20人位になった。また幼い娘たち、国民学校5,6年、中学校高校くらいの少女は、性器が小さいでしょう。あそこがバラバラになって、菌が入り、薬といえばロクロク(性病予防の薬606号)と赤チンキしかなかった。だから膿んで治療できない。そういう時は防空壕に草をたくさん敷かせて、そこに病人を入れた。布団もない。下は土なのだ。軍隊の命ずるままに中に入れられた。当時は電気はなく、ランプだった。防空壕にはランプもくれなかった。だから真っ暗な中で、「母さん腹すいたよ!母さん痛いよ」と叫んでやがて頭がおかしくなった者もいるし、体の悪い者、肺病にかかっている者、こんな人ばかりで、恐ろしくて行けない。何人かが死ぬと、娘たちは恐ろしいから、叫びはじめた。すると、みな一緒にして、まだ生きているのに防空壕に薬をいれて、殺してしまい、埋めてしまった。埋めてから、その横に新しい防空壕を掘り、また病人が出れば、そこに入れ死んでいくの繰り返し」

 戦争とは法の下に、お互いの正義を振りかざした残酷極まりない、殺人に他ならない。


 日本は最終的にもっとも恐ろしい原爆投下の犠牲に遭い、死没者数なんと50万1787人。


 だが、ヤンの祖母は殺されたとばかり思っていた子供が生きていると知った。その子供が全ての事件の諸悪の根源となって来る!?

 


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 日本統治時代の台湾人は、金瓜石収容所で1100人超の捕虜たちが銅山で強制労働をさせられた


 今現在は歴史の暗部の舞台だった事が嘘のように、台湾北部の海岸部に位置する金瓜石は、なだらかな丘陵に囲まれ景色の美しい、かつて鉱山があった、金瓜石収容所で1100人超の捕虜たちが過酷な労働に従事させられていたなど想像もつかない。


 木々が青々と生い茂り、花が咲き乱れ遠くに海を臨むこの土地には、そんな過去の歴史の暗部を諸ともせず美しい景観を見せてくれる。


 

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 新北には第2次世界大戦中、10以上の捕虜収容所があった。その1つの金瓜石収容所には、連合国軍の捕虜約4350人が拘束されていた。


 当時の台湾は日本の植民地だった事もあり、1942~1945年に日本軍の捕虜となった兵士たちは、劣悪な環境の銅山で強制労働をさせられた。


 金瓜石収容所の捕虜たちは、食事も質素極まりない米と薄い野菜汁だけで、土地を耕し巨石の除去や低地をサトウキビ農場にしたり、人造湖をつくるための穴掘りといった作業に従事させられた。


 栄養不足とビタミン不足から、多くが脚気を患って睾丸(こうがん)や足が腫れた。


 捕虜たちは、夏には摂氏40度以上の高温に苦しみ、冬には酷寒の収容所穴の中で多数が亡くなった。


 また、日々のノルマを達成できないと、監視員に採掘用のハンマーで殴打された。



 日本では19世紀から、旭日旗が軍の旗として使われるようになった。そのため、大日本帝国が帝国主義的な拡大を続け、朝鮮や中国の一部を占領した際、軍が掲げていたのが旭日旗だった。


 ※朝日を図案化した日本の旗。 白地の旗面に、放射状に光線を放つ日の丸が赤で描かれている。 明治時代から第2次世界大戦敗戦まで軍旗として採用され、現代では陸上・海上自衛隊が使用しているほか、民間でも祝事やスポーツの応援などで用いられている。


 戦争中にアジアの大部分を占領した旧日本軍は、現地住民に対して残虐行為を繰り広げたからだ。


 現代では今も海上自衛隊の艦の旗で、陸上自衛隊は少し異なる意匠の旭日旗を使っている。


 日本軍はアジア各地での勢力拡大に伴い、植民地化して数十万人を強制労働に徴用した。さらに、当時の残酷な帝国主義政府は第2次世界大戦の始まる前と戦時中、日本兵のための軍用売春宿を「慰安所」として設け、そこで多数の少女や若い女性を強制的に働かせた。


 いわゆる「従軍慰安婦」と呼ばれるこの女性たちは、性的な奴隷として働かされた。韓国人の被害者のほか、旧日本軍は台湾や中国、フィリピンの女性たちもこうした慰安所に送り込んだ。






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