4 死を超えて

 無呼吸になってから、体感時間3分が経とうとしていた。

 バジャウの漁民は水深70メートルで15分間無呼吸でいられる。ジョセフもその例外ではない。でも、それは平常時での話。サメと格闘し、体力を摩耗させたならばその時間は格段に短くなる。


 インカムは酸素ボンベと同時に落としてしまった。パイプをすり抜けるのを見た。もう、矢代と通信することもできない。カウントはそれでも進んでいるのだろう。

 だが、身軽になったと捉えてもいい。

 気づけば、着ているダイビングスーツ以外はいつもの感覚だった。


 すべてを棄てて、海で泳いでいる。

 遮っていたものがなくなると、閉ざされていた潮の流れ、生き物の呼吸、この地域の自然が育んだ生命の躍動が耳の奥に届いてきた。

 すっと水を掻いて、背面泳ぎすると太陽がにじんでいた。白夜のように不思議な光景だ。


 今日、たくさん血を見た。いつも以上に凄惨で、いつも以上に意味のないこと。バジャウは目的も無しに命を奪ったりしてはいけない。

 父にいい聞かされたことだった。


(こんなに胸くその悪いゲームがあっただろうか)


 漂泊の思いで独りごちた。

 異国の金持ちの心理はよく分からない。住む世界が違いすぎるのだろう。


 目を閉じて浮いていると汽笛が聞こえた。

 タンカーからのメッセージだ。発破をかけているのだろう。


(黙って見てろよ)


 背面泳ぎを止めて身をゆっくりひるがえした。近くにサメがいる。

 こちらには気づいていないのだろう。緩慢としている。降り注ぐ光芒を前方に見て、光の海を泳いでいく。スピアを強くにぎった。狩ってやる。


 視線を強くしたときに突如、どんっという衝動に脳を揺さぶられた。

 瞬刻のうちに景色がもやに包まれた。




 頭上にあるはずの太陽は一筋も見えず先はぼんやりとしている。亜空間に閉じこめられたような心地を憶えた。経験則で察する。


(まずい、酸欠だ)


 いつもならばこんなにすぐ酸素が切れることなどない。だが、荒ぶる胸の高鳴りがそれを押し進めているのだ。

 近くにサメがいたことを考慮して、身を低くした。緊張感が一気に高まる。

 檻の床に身を寄せて、下限のパイプを手探りでつかむと目を閉じ、神経を集中させた。


(慌てるな、聞き分けろ)


 異音を聞いた。すぐ近くにいる。

 音は這うように近づいてくる。

 ふいに、潮に反り返るような衝動を感じた。勢いよく黒いものが頭上をかすめていく。

 本当の恐怖は口にできない、あの日と同じだった。


 12歳のあの日、ジョセフは初めてサメを獲た。父に連れられていった浅瀬で中型のサメを突いたのだ。そのことに調子づいて、いつもなら躊躇するような深さにまで潜ってしまった。

 サメはすぐにきた。水中で父の声が轟く。夢中でそれすらも聞こえていなかった。

 覚えているのは血に染まった景色。

 その日、ジョセフは父を失って、自身も大けがを負った。


 血に巻かれたあの恐怖の瞬間を何度も思い出している。

 サメが怖くないと思った日なんてなかった。本当はすっごく怖いんだ。


 でも、誰もそれに気づいてくれなかった。


 手足に浮いた感覚がある。

 体が自然と動いた。身を卵のように囲いこむと、ゆっくりと海に漂いながら、静かに解けるように心を蕩揺わせていく。記憶のなかの色んな人々の笑顔が浮かんだ。何気ない日常が。それが嬉しかった。


 生きていくってそういうことでしょう……

 

 ぬるい海水の向こうで、包みこむような優しい女の声がした。


(あんたは誰なんだ)


 知っているわ、あなたは知っている。ずっとあなたはわたしの中にいたのよ……


 静かな心地で答えた。


(ああ、海か)


 大いなる母に抱かれるように安心し切って目を閉じた。


(あんたはずっと見守ってくれていたんだな)


 あなたの苦しみは理解しています。さあ、手放しなさい。すべてのしがらみを手放すのです……


(しがらみ。本当にあれはしがらみだったのか)


 村の人々の期待も、父の追憶も。笑顔の裏にはすべてしがらみがあり続けた。お前の人生、苦しいことばかりだったじゃないか。


 本当に? 


 探るような感情を優しい手のひらが包んだ。


 そう、静かに。静かに目を閉じて……


 次第に海と己の境界があいまいになってゆく。光が一点に収束して、まっすぐ遠くへ走り抜けた。


「ジョセフ!」


 太陽を貫くような父の声が響いた。

 神経が反射して明晰になる。右手に力をこめて加速させると、一気に光の中心へと放った。


 ジョセフのスピアはヨシキリザメを貫いていた。


 血を被りながらジョセフは水面に顔を出した。波が下がりきったところが少しの隙間になっている。ぜえぜえと呼吸を繰り返す。潮が喉や鼻に流れこんで痛い。それに耐えながら吸える限りの空気を吸うと潜水した。


 感覚は冴えた。酸素が戻ったからだろう。肢体を意のままに操って、海を見た。その後も武器1つでサメを狩り続けた。


 生きる命、散ってゆく命。そのはざまを渡り歩く。


 そして。


 長い汽笛が鳴った。ゲームが終わったのだ。小型艇が檻に横づけされると、パイプの上を伝いながらスタッフが頭上にくる。解錠してジョセフを引きあげた。


 濡れた体にアタッシュケースにつまった現金を押しつけられる。カメラに向かって笑えといわれた。

 その重みに涙が出そうになった。中身を開いてカメラに見せるとジョセフは体をのけぞらせて勝利の雄たけびをあげた。

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