2 矢代という日本人

 バジャウは海とともに暮らしてきた民族だ。漁を生業とし、それで生計を立てた。だが、近年になり陸地にあがる若者が増えて、旧来の漁に勤しむものはむしろ少ない。

 ジョセフ自身も本当はこのような将来を描いたわけではなかった。


 だが、父の死がジョセフを変えた。


 夢を捨て、家計を支えた父のように自分も生きよう。日々、魚を獲って持ち帰ればみんな調理してくれて。満足そうな笑顔を見ているとそれでもいいじゃないかと時々思えてくる。都会の生活が羨ましいと思うこともあった。でも、海を棄てられない。仲間を裏切れない。

 その苦しさのなかで生きている。




 今日は待ちに待った週末だ。夜になると人々は食事を持ちより、キャンプファイヤーを焚く。子供たちが日中懸命に拾い集めた木を青年たちが組み上げて豪快に燃やす。

 その火で焼かれるのはサメの肉だ。なかでもジョセフが突いてきた一番のヤツが、美味そうに燻っている。


 キャンプファイヤーの灯りに照らされた人々の笑顔を見ていると、幸せの価値が分かる気がした。その感覚だけは歳を経ても変わらなかった。


「あなたすごいわ」


 腕に手を回して、恋人のイザベルが心酔している。悪い気持ちではない。


「今日は運がよかったんだ」

「謙虚なのね、いつもそういってるわ」


 思わず返す言葉が無くて、頭を掻いた。控えめなジョセフは褒められることが左程得意ではないのだ。


「おい、イチャついてんぞ!」


 向かいの中年が声を上げた。


「うるせー!」


 思わず叫ぶと、どっと笑いが起きた。その笑いに浸ると心が満たされた。やっぱり幸せなんだ。その価値をかみ締める。


(きっとこれでいいんだろうな)


 将来はイザベルと一緒になって、この地で家族を作り死んでいく。バジャウという大きな運命の輪に組みこまれた自身の生を深く思考する。

 酒を流しこむと体が火照った。イザベルが身をいっそう近づける。多少酔っているらしかった。


「好きなの。結婚したい」


 思わぬ告白に面食らう。


「それって今いうことかな」

「そうよ」


 幸せな気持ちに浸って頬にキスをした。


 晩さん会は終わって集落からの帰り道、家族と一緒に水田のあぜ道を歩いた。

 カエルの鳴き声が月夜に響いている。

 弟はジョセフと母の間で手を繋いで楽しそうにしていた。幼い弟は父の面影すら記憶にない。


「オレも大きくなったら兄ちゃんに銛を習うんだ」

「そうしなさい。きっといい漁師になるわ」

「いいでしょ?」


 あどけない瞳を向けるので微笑んだ。


「ああ、いいよ」


 母と2人で繋いだ手をぐんと空へ持ちあげる。弟の体が浮かびあがった。


「もう1回、もう1回」


 ぐんと地を蹴って、小さな体が空に舞う。夜が澄んでいた。



       ◇



 日々漁を続けていると時々不思議な人に出会う。

 矢代という男もその例外ではなかった。


 地元民が多く集う市場で、1人浮いたように白い格好をしていた。彫が深くジャパニーズのようにも思えなかった。流暢に英語を使う。


「キミ、漁師かい。いい体してるよ」


 手元には中型のレモンザメがあった。


「なんです」


 人見知りをするジョセフは少し身を引いた。


「そのサメ買うよ、いくらだい」

「えっ」


 意外な申し出に声が上ずってしまった。


「いくらだい。売ってくれるんだろう」


 屈託のない笑顔の奥に優しさが見えた。不思議な心地だ。知らない人なのに。こわばりが解けてゆく。


「丸ごと買ってくれるのかい、いいじゃないか」


 ホセ老人が話を進めたそうにしていた。どの道、売らなければ持ち帰りになる。ジョセフは同意して、レモンザメを相場より少しふっかけてペソを受け取った。


 矢代に誘われたので近くの喫茶店に入った。あまり気は乗らなかったが、ホセ老人が人好きする性格なので、こういうことがあればまず断らない。仕方なく付き添った。


 おごるというので、カラマンシージュースを頼んだ。木の樽を裏返しただけのスツールに腰かけて話をする。

 矢代はよく文化を学んでいて、バジャウという廃れゆく伝統そのものに興味があるようだった。


「バジャウの男なら水深70メートルに15分潜るって本当かい」


 冷たいジュースの氷をからんとさせて、矢代が問いかけた。


「……オレはそんなに。深いところにはいかないんです。でも普段の水深ならそれくらいは」

「すごいな」


 目を丸くして驚いていた。


「サメって怖いだろう」


 何気なくいった言葉だろう。だが、これには口を噤んだ。日頃怖いと思って漁をしているわけではない。コツを知っていれば上手くやれるような種類の脅威だ。

 でも、父の記憶がある。消えない傷跡がある。忘れることのできない記憶を今でも引きつれて、ジョセフは海に潜り続けている。


「簡単じゃないんです」


 そういってカラマンシージュースを飲みほした。

 もう終わりにしようと、立ち上がると矢代がいった。


「不快になったのかい」


 気持ちが漏れ出たのだろう。そうじゃないと返した。でも実際はそうだった。


「明日は漁に同行させてほしい。見たいんだ」

「船には3人乗れない」


 ジョセフは矢代の嘆願を断った。




 怒るように家路を踏んでいるとホセ老人が追いかけてきた。


「どうしたんだ、ジョセフ。らしくない」


 彼は手に入れたレモンザメを売って得た金をにぎっていた。お前のものだ、と布財布を渡す。感情はひりついていた。


「無神経だよ」

「どこがだ。いいヤツだったじゃないか」


 そう、極めて感じのいいヤツだった。失言をしたわけでなければ蔑ろにされたわけでもない。リスペクトもあった。

 だが、滑らかな会話の向こうに好奇心を感じてしまった。

 たぶんそれが引っかかっているのだ。


「お前の気持ちは分かってるよ」


 とん、とホセ老人に背中を叩かれる。違う。

 分かってないじゃないかと独りごちた。




 矢代に仕事の話を持ち出されたのは数日後のことだった。無視しても相変わらず市場に通い続けている。どうやら本題があったらしい。

 ホセ老人をはさまず2人で、と誘われたので市場を出たとこの木蔭で話す。

 燦々と陽の降り注ぐなか、ほんのり汗を掻きながらつぶやいた。


「シャーク……ファイト」


 なんと悪趣味な名前だろう。聞いたことがない。名刺には『ヤシロ・タカハル』と書かれていて、ディレクターとある。よく分からなかった。


 その後見せられた動画を見て、肝が凍る心地がした。

 動画のなかで人がサメに喰われ逃げ惑っている。


 スマートフォンは自身のものがなく、時折集落で持っている人間に見せてもらうくらいだった。再生回数はモンスター級だ。有名なものなのだろうが、シャークファイトに関しては存在も名前も聞いたことがなかった。


「キミはサメを突くんだろう」


 なにもいえずに胸を詰めた。極めて残酷な映像に、父の最後の瞬間がまざまざと蘇る。忘れられないあの忌まわしの日の記憶が。


「これを見せてどうしたいんです」

「キミに出演を打診しているんだよ」


 目をぐっと閉じると、反感があふれ出した。


「だから、サメを買ったのか」


 すべてのバジャウへの侮辱だと思えた。お前の払った金でオレたちは食料を買ったのだと。


「出ません。出るわけないでしょう」

「賞金は1千万ペソ出す!」


 恫喝するように矢代が叫んだ。

 目を見開く。法外な金額だった。一生漁をしても稼げないような大金だ。


「キミがトライしてくれるならば、倍でもいい」


 心臓が急に波打ち始めた。興奮しているのだ。

 唇をかんで少し思考する。だからホセ老人を同席させたがらなかったのだ。


 映像のなかの男が足を失いながらも野性的に悦んでいる。ますます怒りが募った。


「金で横面引っぱたいて、あんたたちは喜んでんだろ!」


 拳を強くにぎると矢代をにらみつけた。




 ジョセフと別れた矢代はそのまま電話をかけた。手にはにぎりつぶされた名刺がある、ジョセフはこれを忌んで受け取らなかった。


「おい、次のシャークファイトが決まったぞ」


 満足な声で電話をかけた。電話の向こうで浅く笑う声が聞こえる。


『お前も悪人だなあ』



 悪人。悪人であるアイツが悪人というから自身は相当な悪人だ。


『日本では漁はしないのかい』


 漁。悪趣味な表現だと思った。


「日本じゃ探せねえ。鬼島の阿呆がヘマしたからな。サツがうろついてやがる。オレももう戻れねえよ。できる限り続けるさ」

『フィリピンのバジャウってのは漁民だろう』

「サメを狩るんだよ。とびっきりの上等なヤツを構えてくれ」

『用意しておく』


 電話の相手は笑って切った。

 おざなりな通話を終えると矢代はさらに別のところへかけた。相手はスペインだ。矢代は流暢なスペイン語のあいさつを交えながら話題を切り出した。


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