幕間
1 マグロ解体職人の証言
老人は煙草に火をつけると煙を燻らせた。
過ぎ去りし日々を追憶するかのように、瞳で遠く見つめる。
「ああ、あのときたしかに漁港は湧いていたね。久しぶりの活気だった」
風が吹きこんで透けたカーテンを揺らした。木枠の窓辺からは煌めく海が見える。時々恐ろしいように黒く気配を歪ませるが、普段は凪いでいてごく浅い水色を放つ。
湾内にはケージダイビングをしている船がいくつも浮いていて、金を持った異国の客たちは嬉々としてサメに会いにゆく。
ロッキングチェアーの片方の手すりはもげてすでに使えず、ぎりぎりの生活ではそれを購入する余剰などなかった。
「漁師の間で密かにうわさになってたのさ。沖合でジャパニーズがサメを買い叩いてるってな」
そういって両手をカイトのように広げた。目を剥かんばかりに丸めるとやや興奮気味にそういう。
「ぼろいタンカーを2隻浮かべて、シャークファイトっていう遊びをやってるらしい。そいつらがサメを欲しがってるぞってな」
老人は立ちあがり古いチェスターに寄った。オンボロレコードに針を落とすと曲が鳴り始めた。最近ヒットしたばかりのハウス・ミュージックだった。老人はナウいだろう、と笑う。
「ずいぶん儲けたヤツらがいたんだぜ。最低でも1万ランド、最高で100万ランド。条件は生かして連れていくことだけだった」
彼の浅黒い指先は潮で乾いている、マグロを大量にさばくと油を取られるのだ。職人の手を擦り合わせて人差し指をパタパタとさせた。
「カツオ漁をやってた兄弟が8メートルの獲物を釣りあげたらしい」
そういって部屋の壁と壁を指さす。せいぜい5メートル。足りないな、と彼は綻んだ。
「このところアジアンのサメの乱獲が激しいんだ。西の方ではホホジロザメも大型のものはずいぶん減ったさ。知ってるか、アジアンは釣りあげたサメの両ひれと背と尾を切り落として海に戻すんだ。泳げねえサメは沈んで死んじまう。サメが仲間の死に近づかねえ理由さ」
美味そうに煙草を吸うと今度はひと際長く吐いて、咳こんだ。
「すまねえ、肺がイカれちまってる」
胸を慣れた手つきでさすって抑揚をつけた。
「そう、その8メートルは最高額の100万ランドで買われたらしい。あっという間にカツオ漁師の兄弟はサメ漁に転職しちまった。そのうわさを聞いて、多くの漁師が沖に出た。カツオ漁も、サバ漁も、イワシ漁もみんな。朝陽が出る前に我先にと船を走らせてな。ひっそりと売ってくるんだ」
とんと、アルミの皿に灰を落として眼光鋭くした。
「ケージダイビングの連中に知らせてみろ。すぐに騒ぎが起きちまう。いわないのは暗黙の了解だった」
遠く晴れ空の下に商船の姿がある。喜望峰の沖合ではそうした姿がいつでも見られる。あの船はどこからきてどこへ帰っていくのだろう。
「でももうやってない。いっときのゴールドラッシュだった」
郷里への愛情を含んで老人は眼差し深くつぶやいた。湧き立ったあの懐かしい日をずっと思い出しているのだろう。まな裏にタンカーを浮かべて、輝かしい日々を追慕している。
証言通り、郷里一体でのサメ騒ぎは間もなく鎮静化された。
騒ぎの半年間も老人は変わらずマグロをさばき続けた。その事実だけは変わらなかった。
浅黒い口元でふっと煙を吐く。余韻が部屋に霧散した。
「タンカーはいなくなっちまったのさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます