3章 永山堅持

1 シール島

 中型艇の甲板に打ち寄せる波を浴びて、船長のディードは目を細めた。今日は海が荒い。

 電動リールに巻きつけた極太のケーブルを垂れているが、手ごたえは海に出て4時間まるでなかった。心には焦る気持ちがある、他に大物を先獲りされたら。

 時間は無遠慮に過ぎてゆく。


 ぽつねんと海に浮かんだ船の上で閑散とした景色を眺望していた。

 ぶつ切りのマグロにかかる獲物はサメぐらいのものだ。


 元々はカツオ漁船。うわさを聞きつけて、中古の電動リールを乗せてすぐに始業したが、そうそう美味い話が転がりこむものでもなかった。


「老人と海だな」


 文豪ヘミングウェイのタイトルを口にして、サビ切ったパイプイスに腰を下ろした。

 太陽は陰っている。釣れる天候ではないが、それでもカツオを釣った方が確実に給金は稼げた。


「兄さん、モーセルベイで6メートルが揚がったって」


 息せき切って甲板に顔を出した弟が大声で興奮気味にいった。

 ディードは嘆息した。昨日までは自分たちもモーセルベイにいた。モーセルベイはホワイトシャークが多く生息している。数はたしかに多い。だが、小型しかかからず一攫千金を求めてここフォールスベイにやってきたというのに。

 判断の誤りが口惜しくなる。6メートルとはそれくらいのサイズだ。


「2時間格闘したって」


 かなりの大物だったのだろう。一度拝んでみたいという気持ちはある。


「オレなら半時間で釣った」


 冗談だろ、と弟は身ぶり手ぶりでジェスチャーする。冗談だ。


「ポイントを変えよう」


 威勢を張って立ち上がるとディードは面舵を切り、船を西のケープタウン方面へと向けた。




 アザラシが多く生息するシール島には危険なサメの出没情報がある。

 ホワイトシャークは脂ののったアザラシを好む。人を喰うと恐れられているが、真実はそうじゃない。ダイバーの着ている黒いゴムスーツをアザラシと間違えて襲うのだ。

 ここらの海域には肥大したアザラシを獲物にしている大物がいるはず。


 冷凍マグロのぶつ切りにイワシの脂を混ぜて撹拌すると、甲板に血が流れた。

 ごんごんとかき混ぜてよくにおわせる。それを船上から海へと豪快に播いた。


 2時間が経ったが音沙汰はまるでない。

 やはりノウハウが無いのがいけないのか。金に誘われて始めた漁だった。カツオ臭い船にそそられるサメなんていないのだろう。


 太陽は真上の雲にある。


 昼食の時間になって席を離れようとした時、アザラシがざっと、いっせいに海へと飛びこんだ。

 大きく飛沫が上がって、海がにおい立つ。

 恐怖が肌を撫でていった。違和に包まれて何かが違うと海をにらみつける。

 巨大な幻影が海に揺らいだ。


「ジャスティン!」


 ディードが叫んだ。


「兄さん、どうしたんだい」


 慌てて出てきた弟が叫んだ。


「サメだ、冗談じゃねえ。8メートル以上ある」


 2人で海をのぞくと魚影が隠れるように船下にもぐった。


「消えやがった」


 煙のように消えてしまった大物に呆気にとられてつぶやくと、瞬刻、船が大きく傾いだ。大きな波に乗りあげたらしく反転しそうに泳ぐ。


「わっ」

「うわっ」


 慌てて船の縁にしがみついた。

 ケーブルがくんと強く海に引かれた。


「かかっただと!」


 2人で電動リールまで走った。電動リールが高速で回転し続ける。ものすごい勢いで海に引かれていく。呆けて言葉もない。


「くそっ」


 ボタンを殴るように押すとリールの回転が止まって船が反動でそり返った。


「冗談じゃねえ」


 冷や汗が滝のように流れている。拍動が止まらない。

 購入したばかりの中古にさっきのがかかっている。ワイヤーは右左へ蛇行している。サメは引き続けなければ弱り死ぬ。


「ジャスティン、船を出せ!」


 弟が操舵室へと走る。中型艇は曇り空のもと疾走し始めた。




 走っていると小雨が降ってきた。

 今日は午後から悪天候になる。沖合の船はすでに戻り始めている。そのなかで逆行するように沖合に向けて船体を走らせている。


 ケーブルの先にサメが喰いついて、1時間。勢いはまるで衰えない。時たま浮上する魚影はすぐに波間へ隠れる。あまりにデカイ。デカすぎる大物だった。

 鉄のケーブルは断裂しそうになっている。これ以上巻き上げることはできない。


「保て、保ってくれ」


 ディードは中古の電動リールに願いをかけて操舵室へ走ると無線を引っつかんだ。


「おい、聞こえるか!」


 しばらくして、返答があった。落ちついた男の声だ、訛りだが流暢な英語を話す。


<どうした。商談か>


「ああ、そうだ。8メートル級の大物だ。生かしてる。あんたの条件通りだ」


<いいだろう。いくらいる>


「1本いや、2本出してもらう」


 そういって叫ぶと応答があった。


<10本出してやるよ。殺さず連れてこい>


 無線の向こうの声はご機嫌だった。ディードも汗を垂れながら笑む。恐怖の冷や汗だった。

 外に出るとケーブルの状態を確認する。なんとか保つだろう。祈るような気持ちで目を閉じた。


「兄さん、見えてきた!」


 弟が操舵室から顔をのぞかせた。

 視線を上げると沖合に2隻のサビ切ったタンカーが見えた。




 牢獄のような巨大な檻がタンカーの間に係留されていた。

 うわさは聞いているが知りたくない。どうでもいい。ディードはかけた大物に満足していた。


 小型艇が寄って、こちらの船に男が乗りこんだ。アジア系だろう。迫力はあるが、口調は必ずしもそうではなかった。


「船を檻に横付けしろ。サメを囲う」


 ヤシロというその男の指示で8メートルの怪物が檻のなかへと迎え入れられた。心を包んだ恐怖がようやく消える。獲物は一定時間の後、従順となり、静かに牢獄のなかへと入っていった。

 視線を伸ばし、すっと見えた海中の魚影に息を飲む。

 檻の中には他にも活きのいいのがたくさん泳いでいるようだった。


 ヤシロの腰元にはピストルがあって、口調には気をつけなければならなかったが。


「いくらくれるんだ」

「兄さん、止めなよ」


 はやる気持ちを弟が制した。


「慌てるな、100万ランド(日本円換算700万円)だったな」


 そういって札束をディードの手のひらに積んでいく。冗談かと思っていたが、満額出した。男の手元のアタッシュケースにはそれ以上の額がぎっしり詰まっていた。

 ヤシロは自身の小型艇に戻ると大声でいった。


「いいのが釣れたらまた売ってくれ。悪い話じゃないだろう。この話は仲間にも知らせておいてくれ」

「ああ、分かったそうするよ」


 手をふると陸地に向けて船を出した。やばい商談だが、済んだ。

 10年カツオ漁をやってきたがこれほど満足した漁というのはそんなにない。

 弟と手を取り合い、喜びを分かち合った。


 今日はごちそうだ。ヌーを家族で食う。身重の嫁も手を叩いて喜ぶだろう。

 暗雲の垂れこめた空から涙雨が降り始めた。もう漁をしている船はいなかった。ミズナギドリが波に揺蕩いながら悲しく鳴いている。

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