2 自殺と借金
永山堅持は埠頭で吐いていた。臓腑が裏返るほど苦しい。たらふく飲まされた酒を胃から絞り出す。理性などすでになく、ぎりぎりのところで精神を繋ぎとめていた。
「飛びこめよ、おら」
飲酒の上での海難事故に見せかけた自殺、そうすれば保険金が下りるとヤクザが勧めた。
下りた保険金で彼らへの借金を支払う。もう5カ月待たせている。先はない。
永山堅持はこれでも小さな建設会社の社長である。
先代、先々代の社長たちが作った借金を知らずに受け継いで、そのまま社長職に就いた。借金の内訳はほとんどが会社を去った人々への退職金だ。彼らは自分たちの設けた好待遇でひたすらいい思いをして、悠々自適に老後を過ごすと苦労など知らずに天国へと昇っていった。
現在、銀行の融資も得られず、会社には従業員の給金さえ支払う余裕もなく、永山が借りた金で会社を存続させている。
経営状況は少しずつ上向きにはなっているが、闇金で借りた金が膨らんだ。縋る先はない。
借金4986万円。死んでも足りないのだ、死ねば残りの請求は遺族にいく。
「……でき……ません」
泣きながら項垂れた。埠頭に光が伸びる。上機嫌の金持ちを乗せたクルーズ船が湾内を周回していた。
「泣いていても金は出てこねえ、そこに立てよおら。勇気がねえなら押してやろうか」
そういって背中に手が回った。
「ひぃっ」
背中を反らして吐いたものに手が触れる。気持ち悪い汚物の感覚が現実を知らせてくれた。
「か、監視カメラがあるんだ、警察が見る」
「死んだ後の心配はいいよ、上手くやるさ」
闇に含み笑いが反響した。
喉が崩れるように震えた。洟をすすった。
やくざはしゃがみこむとトントンと肩を叩いた。
「明日頑張ろうな」
優しくささやき去っていった。永山は髪をひっつかんで泣くしかなかった。
三角座りで、海に映った街の明かりを見ていた。
人々の営みは朝まで止むことがない。東京に出てきたときにずいぶん驚いたけれど、それも当たり前になってしまった。
帰ろう。そう諦めて立ち上がり、ふり返ると一人の男が立っていた。
闇に溶けこみそうな紫のスーツをまとっている。
関係ないとかわそうとした時に声をかけられた。
「お金が欲しいんじゃないですか」
もうこれ以上借金は重ねたくない、無視しようとするとこう呼ばれた。
「永山堅持さん」
足を止めて男をふり返る。夜とサングラスで表情は分からない。どうして名前を知っているのだろう。
「欲しいです。でも、もう借りたくない。これ以上は返せない」
「なら、なおさらいい話です」
すっと伸ばされた手の白さが闇に際立った。
「わたしは鬼島といいます。あるゲームのスカウト担当をしています」
「ゲーム?」
問いかけると鬼島はスマートフォンを胸の前に立てた。体中の毛が逆立つ。
世間ですでに有名となった、あのゲーム。シャークファイトだ。
口に出すのも憚られる。
「条件によってはあなたの背負っている借金が全額完済できるかもしれませんよ」
息を飲んだ。たしかに完済できる。だがそんなもの。
永山は涙の乾いた頬を上げた。鬼島は微笑していた。
◇
鬼島との交渉を終えて、永山は帰宅した。時刻は11時半、その帰宅を妻は待っていてくれた。胃の中は空だが、食欲はない。水だけを欲して飢えたように飲んだ。
「すまない、洗っておいてくれ」
そういって胃液に汚れたスーツを脱ぐ。十分な生活費を渡していない。クリーニングに出す余裕もないだろう。
「あなた、大丈夫?」
妻が心配そうにした。奥の部屋で勉強をしていたのだろう。息子の涼太も起きてくる。
「帰ったの?」
言葉少なに高校生の息子は問いかけた。気の利いた長男だから、きっと心配してくれていたのだろう。
「勉強頑張ってるな。水泳も頑張りなさい」
水泳をやっていた永山の影響で幼い頃から始めさせた水泳、それを息子はこの歳まで続けている。
自身は泳ぐことなんてもう忘れてしまったが。
「テストなんだ。部活は休み」
「そうか」
気真面目な顔でうなづくと永山は部屋にこもった。
閉めたふすまに背をついて項垂れると右手を体で抱きこむようにした。埠頭のコンクリートの上でサインをした時からずっと震え続けている。恐怖が止まらないでいる。
文字が震えて、名前を書けないというのも無い経験だろう。
シャークファイトに参加する、すでに契約してしまった。
(5000万が入るんだろう。返済して残りで生活が少しできるさ)
自身でそう和まそうとしても、気持ちは裏返る。胸の内に恐怖が渦巻いてどうしようもない。海に溺れて、サメに襲われて…………茫漠とした。
つまり切った息を吐くと涙がにじんだ。
自殺するよりはるかにしんどかったのではないだろうか。選択を誤ったかもしれない。
永山は死ねなかった埠頭を静かに思った。
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