6 極限の裏切り
鉄サビのにおいがする。海水に混じった血のにおいを自分も感じているのか。
気持ち悪い。
怖くて目線を上げられなかった。右にサメ、左にサメ。交互にアタックしてくるそれを寸でのところでかわしている。種類はたぶん……ううん、どんなことどうでもいい。
亮は裏切ったのだ。わたしを裏切ったのだ。
足の痛みだけが鬱屈しそうな心を引きしめた。
しっかりしろ、生き残らなければ日本に帰れないのよ。
でも悲しい、悲しみに支配されてどうしようもなくなっている。
左からきたイタチザメがパイプに体当たりすると心臓が竦んだ。後ろのバーへ避ける。背中にとんと、檻の感触があった。もうこれ以上下がれないと、思った時。
信じられぬものを見つけて目を見開いた。
矢代に見せられたあの赤いボタンだ。頭上から垂れている。これを亮は押したのだ。自分が助かりたいために。指が伸びてゆく。そっと人さし指で触れた。
<奈津美!>
亮の焦った声が聞こえた。
<ボタンは押すな>
瞬刻、反感が湧いた。
「あなた自分が助かりたいからでしょう!」
<そうじゃない。押せば連中の思うつぼだ>
「押したくせにウソいわないで」
<違う聞け、奈津美。オレは本当に…………>
亮がすべていい切るのを待たないで、奈津美は衝動的にボタンを殴った。
インカムの向こうで亮の猛りが聞こえているが、心に蓋をした。
これは生き残りをかけたバトル。助かるのは1人だけ。助かったほうが、日本で莉理を育てる。そして、自分は負けるつもりはない。
彼を愛していた。愛されていると思っていた。でもそれはまやかし。
にわかに指先に振動を感じた。にぎり締めていた安全バーがゆっくりと昇り始める。
亮が押したのだ。
(やっぱり)
涙がまたじわりと溢れた。わたしたちはもう元には戻れない。
慟哭を堪えながら、涙のままにバーを離れた。
進みながら赤いボタンを見つけるとすべて押した。向こうも同じようにしている。
噛まれた右足の感覚はない。血を播き散らしながら死に追われている。
言葉の応酬をして、感情をぶつけた。裏切りに裏切りを重ねてここまでやってきた。
遠くにゴールが近づく。進んできた亮の姿も小さく見えている。互いに最後のバーでサメの追従をかわして足踏みしている。亮は3頭、奈津美は2頭。
中央にたどり着いた方が1億円を手にして日本に戻れる。
奈津美はバーを手放して海へと漕ぎ出た。すべてが取り払われて宙に浮いているような感覚になった。ゆっくり泳ぎながら賞金を模した金の延べ棒へ。これを先に手に取れば。
伸ばした指先に。
<奈津美、早く取れ。もういい、ゲームを終わらせろ>
亮もまた疲弊していた。温もりのある声に思い出がこみ上げる。フィールドを駆けたあの背中。2人で過ごした、幸せな時間。莉理を身籠り産んだ。すべてが愛しかったあの部屋の記憶に刻まれた、
――亮の暴力。
金の延べ棒に伸ばしかけた手が止まった。
頭上から天啓のように最後の赤いボタンが垂れていた。
<止めろ、奈津美。早く賞金を取れ>
「……えが……たす……から」
奈津美は呆然と呟いた。
<奈津美、早く!>
亮は必死の声掛けを止めない。サメが集まる。腕を怪我しているようだった。
「って……のか」
<奈津美!>
「お前が助かりたいからいっているのか!」
恫喝して感情のままボタンを殴る。システムが作動して向こう側の最後のバーが上がり始めた。
<なっ、ふざけ……奈津美! お前が先に……わっ、うわ、ぎゃあああああああああああああ>
オオメジロザメが丸太のような胴体を噛み切る。それに残りの二頭が群がった。
インカムから千切れんばかり叫びが聞こえていたが、遮るように外した。やがて血に巻かれる。
静かに目を閉じた。こんなにも生々しい。
爆ぜそうな感情で奔流を押しこめた。大丈夫、先に裏切ったのはあいつなのよ。
金の延べ棒を手にすると開いていた頭上の檻から海上へと顔を突き出した。奈津美は這いでて鉄の檻の上に立つと、奇声を発するように虚空に叫んだ。
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