5 タイムアタック

 現地について間もなく、2人はダイビングスーツに着替えてボンベを背負った。亮は北から、奈津美は南から入る。小型艇で運ばれて先に亮が海へ。別れるときにぐっとボンベごと抱きしめてくれた。

 なんて包容力があるんだろう。亮はそっと耳元で囁いた。


「頑張ろうな」


 うん、と小さく返事をして別れる。小型艇の上でずっと手をふっていた。

 南のゲートに到着すると奈津美もまたゴーグルを下ろした。


「インカムで状況報告しますので。あと、この地図を持っていって下さい」


 渡されたのは迷路の地図が印字されたプラ板だった。なるほど、これがあれば論理的には真っ直ぐ中央までたどり着く。

 大事なのは互いに生き残って賞金を手に入れること。逃れのボタンは押さない、絶対に。


 指示を受けて海中に入るとインカムの調子を確認した。相手は矢代と亮。2チャンネルあって、向こうの都合で切り変わる。


<それでは始めたいと思います。撮影も始まりますので、それを意識してください>


(どんな風に。恐怖に泣き叫べというのだろうか)


 奈津美は矢代を軽蔑した。静かにゲートが閉まってゆく。




 入ったとこに早速サメがいた。気持ち悪い緊張感が襲う。

 種類は良く分からないけれど、人を喰う種類のものだろう。体長は4メートル近くあるだろうか。呼吸を潜め、身を縮こめて存在感そのものを消す。


 巨体は水を掻いてのそりと近づいてくる。檻の底に這いつくばると相手はその上をすり抜けた。そうしているうちに気付く。


「亮、聞こえる? 檻の底に張りつくようにして進めば攻撃してこないわ」


 サメは習性として、目線より上のものを襲う。アザラシしかり、海鳥しかり。目線より下のものは襲わないのだ。某ドキュメンタリーで覚えた知識だった。


<よし、了解だ。やってみる>


 声に安堵した。亮もまた、無事な様子だった。

 奈津美は潜水の要領で静かに進んでいく。

 怖い、上でサメが泳いでいる。でも大丈夫。


 間もなく一本目のバーが近づいてきた。


<一本目のバーに着いたぞ>


 亮の声が聞こえてきた。奈津美も到達する。

 バーの間に体をはさむと呼吸した。心臓が締めつけられるように苦しい。ストレスがかかっている。この高鳴りは出るまで止みそうにない。


 進行方向の右手からオオメジロザメがきた。それをゆっくり交わす。バーから左に身を抜いて、アタックを回避すると去ってゆくサメの背を見送った。また体をはさめる。


<奈津美さん、反対からもう一頭きましたよ>


 矢代の助言で今度は右に抜く。同様にイタチザメを回避した。


(きっと映像では面白おかしく実況されているんだろうな。この状況も)


 自身に聞こえるのは矢代と亮の声のみ。現実はこんなものだ。


<無事か、奈津美>


「うん、大丈夫。次にいくね」


 また這いつくばると静かに潜水で進んだ。




「思ったより、面白くないですね」


 タンカーの操舵室で、白スーツの矢代の背後で控えていた男がひと言述べた。それには矢代も同意する。


「夫婦の面白味がないよな」


 期待していた裏切り合いにならない。地味の一辺倒。煙草の灰を灰皿に落としてまた吸った。


「カンフル剤を投入しますか」


 部下の進言に舌を縦にした。少し考える。面白くしろときつく命じられているのだ。


「檻の付近にたっぷり播いておけ」


 そう命じると人員が動き始めた。


「カンフル剤ぐらい播いてやるよ。でもな」


 火のついた煙草をすっと横に切った。灰をとんと落とす。


「恐怖はこれからなんだぜ」




 次のバーを目指していた奈津美は海水が赤らみ始めたのに気がついた。前方で血が大量に播かれている。高木勝利を死へとおいやったあの魚の血だ。3頭の巨大なサメが群れるように集まり始める。

 巨大な化け物の目が血に興奮している。鋭利な歯を光らせ、旋回しながら獲物を探している。


(進めない)


 ルートは直進のみ。迂回路はない。制限時間は10分しかないというのに。


「進めないわ、亮」


 すると返事が返ってきた。


<こっちもだ。でもやってみる>


「無茶しないでね」


 インカムの向こうでああ、と返事が聞こえた。心配で堪らなかった。

 しばらくするとついの連絡がきた。


<上手く抜けられた>


「よかった、どうやったの」


<右上に集まってたから左の隅を通ったんだ>


「そう、じゃあわたしもやってみる」


<気をつけろ>


 奈津美は亮の助言通り、サメの集まっていない中央部の下部から突破を計った。身を沈め、ゆっくりゆっくり水を掻いて。大丈夫、サメは夢中で気づいてない。

 バーにたどり着き、そのまま抜けようとした時――


「えっ」


 ゆっくりと安全バーが上がり始めた。


「待って、やだ。やああ、いやああああああああああ」


<どうした、奈津美!>


「やあああああああああ。待って待って、助けて」


 無数の泡につつまれて奈津美は叫び続けた。

 潜水することを失念し、必死でもがく。クリアな景色の向こうからサメが迫った。


「いやあああ、怖い。怖い!」


 直進してきたサメに背を向けて必死で逃げる。逃げるが動揺で速度がでない。もがきながら一つ先の安全バーを探す。どっちだ、どっちだった。

 記憶では右のはず。そう思って右折したが。


(ない、バーがない!)


 背後を向いて戻ろうとするとサメがあごを外して大口を開けていた。それを僅差でかわす。逃げ惑うように今度は左へ。


<奈津美さん、急いでください。急いで早く!>


 恐怖で嗚咽が止まらなかった。忘我のなかで逃げ惑った。




 喧騒が過ぎて、奈津美はバーに縋りつくように身を潜めると洟をすすって静かに泣いていた。ゴーグルのなかの涙が止まらない。肩は震え恐怖していた。もう止めたかった。


<大丈夫か、奈津美!>


 ようやく聞こえた亮の声。奈津美は泣き叫んだ。


「どうして押したの、亮!」


 あんなに裏切らないと誓ったのに。


<押してない>


「ウソよ、ウソつかないで」


 自分助かりたさに、亮はボタンを押した。その事実が心をえぐる。わたしは裏切らなかったのに。これほどに辛い。止めようとした嘆きが溢れていく。


<聞け、奈津美。オレは押してない。大丈夫か、何があった>


「大丈夫じゃない」


 視界が涙に曇った。

 そういって泣きながら奈津美は足に手を伸ばした。

 奈津美は右の太ももを深く噛まれていた。

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