4 シャークファイト
海は驚くほど静かだった。サメの姿が遠近にいくつか見えるが、近いので一頭のみ。ルートは複雑に絡み合ったパイプで仕切られて、迂回しなければこちらには即座にこられない。
二人のダイバーによってゲートが開かれると<中に入ってください>とインカムで指示があった。白スーツの声だ。
背後で檻が下りていく。がしゃんと金属のぶつかり合う重たい音が鳴った。
まるで牢獄だ。静かに呼吸をすると違和が襲ってきた。心音が浮遊の恐怖に高鳴り、手脚がコントロールできずに震える。
牢獄の片隅で怯えながら、死刑執行人を眺望している気分だった。
呼吸は静かに。気配を殺して控える。そうすれば悟られない。
――だが。
パイプの向こうを巨大ザメが通過した。ぬうんとした気配に喉が開き切った。泡を一気に吹いて、バブルに包まれる。
巨体がゆっくり過ぎると荒い呼吸だけが繰り返された。
目前のサメが泡吹く標的を見つけて流線型の体で加速する。
大口を開いて、目前へと迫った。
<何やってるんです。高木さん避けて下さい、高木さん>
思考が乱れる、冷静でいられない。呼びかけの声すらまともに入らなかった。
<高木さん>
サメが大口を開けて迫り来る。避けろ、避けろ、避けろ!
<高木!>
「勝利さん」
脳裏に優しい声が聞こえた。石井だ。石井が見ている。
(死ねないだろ)
ふっと上体を反らすと、巨体が胸をかすめていった。
初めて回避した。回避しても火がついたように心拍が止まらない、呼気を吐き続ける。ボンベの泡が騒がしい。
即座に背後を向くとサメが反転してくるところだった。インカムが聞こえる。
<バーを使って回避してください>
「動画は撮れているんだろうな」
苛立ち混じりに荒く問い詰めると、相手はもちろんです、と応じた。
高木は神経を尖らせたまま、15メートル先の安全バー目がけて泳いだ。
海の中でも手は震えていた。真夏の海が冷たいのではない、恐怖しているのだ。
安全バーに挟まるようにすがりついていて、5分が経った。時計は止まらず進んでいる。時間の経過は思った以上に遅かった。これで40分と思うとやり切れない。
直進にサメ、右に迂回してサメ。
直進のサメが時折突進してくる仕草を見せるが、鉄パイプにむやみには突っ込まない。サメの鼻は急所だと知識にあった。B級映画のアレはウソだなと思った。
<高木さん、次のパイプへ移動しましょう>
「次のパイプ。冗談だろ」
一番近いパイプは右に迂回してサメをかわした先に見える。
<動画ですよ>
「知ってる!」
最初のパイプに留まり精一杯なのだ。この場所で時間いっぱい過ごそうと思っていたのだから。
<ショーとして成立しません。人気者になれませんよ>
「そんなのどうでもいい!」
<こちらは約束の報奨金を用意しているんです>
「当たり前だ!」
歯切れのいい言葉に男は歯がみするとインカムを外した。
タンカーの操舵室からモニターを見ているが、朝から撮影を始めたけれどまだ朝だった。
「思ったより、チキンでしたね」
背後の部下に声かけられて、白スーツの男、矢代は吐息して首をふった。
「鬼島の人選が悪い」
そういい切るとスマートフォンで電話をかけた。
相手はそういう立場の人間だった。
「高木は動きません。カンフル剤を使用してもよろしいでしょうか」
すると一拍を置いて相手の声が返ってくる。
「ええ、ええ。申し訳ありません。順序がありますよね。存じております」
ライブ動画の再生回数は一万回を越えている。電話の向こうでは賭けが続いているのだろう。末端のものには想像さえつかないような巨額が動いている。
頭をペコペコさげながら通話を終えると、矢代は腕をふり小型艇の現場チームに指示をした。
「カンフル剤を投入しろ」
言葉を受けて、人員が動く。小型艇の甲板で、アジとマグロの鮮血が混じり合った生ぐさいバケツを勢いよく撹拌し始めた。ごんごん上下にかき混ぜる。10杯分ある。
水中の高木ははち切れんばかりの神経で左右に視線をふっていた。
(終われ、終われよ早く)
「何分経った!」
だが、インカムの返事はなかった。
「畜生、答えろよ」
憎らしく凄んでも言葉は返ってこない。おそらく体感で30分は過ぎている。いいや、無限に感じられている分、それよりはるかに短いかもしれない。40分で二億円。40分で二億円。あと10分じゃないか。
すると視界が急にスモッグにかかったように不鮮明になった。
何かが起きている。何かが。
「なっ」
頭を上下にふって動揺した。血だ、いくつかの小型艇から何かの血が大量に播かれている。
「何しやがった!」
<ゲーム性を高めるためにカンフル剤を使用しました>
サメが急に発奮したようにくねった。パイプにさえ躊躇せずに全速力で体当たりしてくる。体当たりすると、鉄パイプを噛んで尾まで左右に揺さぶる。両サイドから同時に突っ込んでこられて溜まらずその場を離れた。全速力で離れたパイプへ泳いでいく。
高木はサメの回廊へと侵入した。
カンフル剤はいく先々で播かれた。濃い臭気でサメの嗅覚を刺激し続けている。穏やかだった隠者が捕食者へと変わり、喰いちぎらんと迫りくる。
心臓の高鳴りが止まない、鼓膜に恐怖が押し寄せる。逃げ惑う哀れな光景をみな平和に手を叩いて見ているのだろうと思えた。
「何分経った!」
<15分です>
冗談だろ、まだ15分しか経ってねえのかよ。あと倍以上も残ってやがる。
失念したところへ、一頭のシュモクザメが迫った。平たい口で鋭角的に切りこんでくる。
「畜生!」
平たい口が右足を咥えた。痛みが走る。血がたゆたい、景色が曇る。
乾いた叫びが上がる、理性が千切れそうになった。
運よく口が離れ、血を巻きながら逃げ惑う。始めから分かっていたじゃないか。安全な場所などないのだ。精神を擦りきれそうなほど駆使して恐怖に喘いでいる。
前からサメ、後ろからサメ。下に逃げようとしてもサメ。
限界だ。
ぐっと生唾を飲み込んで叫ぶ。
「終わりだ! ギブ、ギブアップする」
さあ、電気ショックを。だが、声が返ってきた。
<ギブアップというシステムはありません>
「ざっ、ざけんな! どういうことだ」
<これは賭けの対象になったゲームなんですよ。途中で終わりなんてありえない。あなたは生き残るか、死ぬか。それだけなんです。ご安心ください、賞金はたしかに差し上げますので>
ゴーグルの奥で涙があふれた。色々なことを思った。日本で生まれ、日本で育ち、芸能界で生き抜いて。ここまでたどり着いたというのに。
親父、お袋、じいちゃん、ばあちゃん、姉ちゃん。家族、家族、家族、家族に会いたい!
高木は抑えきれぬ感情に支配されて、縁のパイプを掴むと水面から飛び上がった。
「ついにやりやがったな」
矢代は頭を抱えて吐息した。これでは金持ち連中の気が晴れない。
標的はパイプの交差点に足を開いて立って、海中には戻らず時間いっぱいやり過ごすつもりでいる。
まるで岩ガキ漁の漁師だ。
「どうします」
腹心の部下が問いかけた。
「知らねえよ」
たぶん知らねえじゃ済まされない。案の定、スマートフォンが即座に鳴った。矢代は仕方なく手を伸ばす。
高木勝利は鉄パープの檻の上に四つん這いになって泣き叫んでいた。
「助けてくれーーーー、助けてくれよお」
檻の外にも大型のサメの姿がある。右足から垂れた血におびき寄せられたのだろう。いきり立っている。
インカムは無音のまま。相手も応じるつもりはないらしい。
液状の鼻水をたらしながら、足を滑らせながら、必死に凌いでいる。こうなると哀れ意外の何物でもない。
「助けてくれえええ」
その醜態は全世界へ向けて発信されている。
<高木さんよお>
静かに声が聞こえた。その声にすがる。
「聞こえてんじゃねえかよ! 助けてくれよ。助けてくれえ」
一拍の間が空いて。
<シャークファイトなんだぜ?>
高木が目を見開いた瞬間、海中からホホジロザメが空にダイブした。鮮やかに水滴をまき散らしながら高木の体を咥えると海へ潜る。周囲にビッグウェーブが起きた。
「ぎゃあああああああああああ」
インカムの向こうで叫びが轟いた。全身が血に巻かれる。五肢は数匹のサメに喰いちぎられ、肉と化す。その場にいたものたちは、命を散らしてゆく男の残像を静かに見ていた。
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