ソフィー・リニエールのみる夢 ―贈られた言葉Ⅲ―
アーチ型の小窓から入るやわらかな朝の光が、人形のようにピクリとも動かない男を照らしていた。
クリスティーナと同様、座っているだけで神聖さすら感じさせる光景を、ソフィーは呆れたような瞳で眺めた。
(この男、ちゃんと寄宿舎に戻ったのかしら? まさか一晩ここにいたわけじゃないわよね?)
そう思うほどに、ボード、駒の位置、そしてテーブルにつくレミエルの無表情すら昨日といささかの狂いなく同じだった。
唯一違う点は、自分が落とした女王の駒が、レミエルの傍らに置かれていることくらいだろうか。
(入館時間前にも関わらず、司書の方がホッとした顔で出迎えてくれたのはこれのせいかしら?)
彼らにとってはなんとも傍迷惑な男だ。
ただの学生なら注意もできるだろうが、身分が第二王子となると扱いも難しいのだろう。
(こうなった責任は私にもあるけれど、本当に自由な男ね)
ソフィーは、ふぅと小さくため息を吐くと、軽やかな足取りでレミエルの前にストンと座った。
「昨日は突然離席して悪かったわ」
さらりとこともなげに告げれば、レミエルは小さく「いや……」と返した。
人の感情などまったく気にしない男が、なぜか決まりが悪そうに紫水晶のような瞳を揺らす。
理由はどうあれ突然逃げたしたのはこちらだ。
嫌みの一つでも受ける覚悟だったが、まさか気まずそうな視線を反らされるとは思わなかった。
ソフィーはレミエルの態度にいぶかりながらも盤上を見つめて言った。
「はじめからやり直しましょうか?」
「いや、このままでいい」
こちらの返答は早く明快で、悩む仕草すらなかった。
「そう? でも、このままでは貴方負けるわよ?」
幼い子供に「走ったら転ぶわよ」と説くように諭せば、レミエルは不機嫌に片眉をあげた。
「随分と早い見込みだな」
「私は金星の娘だもの。先読みは得意なのよ」
そう言って、少女は優雅な手つきで女王の駒を摘まみ上げると、口元に引き寄せ不敵に笑った。
新緑の瞳は己の勝利を確信しているとばかりに眩い光を放ち、唇は余裕をかたどっている。
昨日駆け出した少女とは思えぬ威厳すら漂う表情に、レミエルは知らず息を呑む。
ダイヤの如き
レミエルの動揺には気づかず、ソフィーは止まっていた盤上を動かし始めた。
迷いのない一手。だがそれはまだ勝敗を決めるようなものでも、奇をてらったものでもない。
だというのに、レミエルは盤上とソフィーを交互に見つめると、訝しげに問いかけた。
「どちらが本当の君だ?」
脈絡のない質問に軽く笑いが零れる。
(本当に抜け目のない男ね。どうして分かるのかしら)
指の角度も仕草も、昨日と変わらず女性的な所作に見えるはずだ。
しかし、この男には分かるのだろう。
ソフィーの心の変化が、盤上を通して。
驚きはあったが、昨日のように心は揺れない。だからこそ、優雅に返した。
「あら、どちらも私よ」
「……………」
口の端を上げて微笑むと、レミエルは一瞬怪訝な顔をしたが、ソフィーは淡々と続けた。
「でも、そうね。できれば私も別だと思いたかったわ。だってみっともないでしょう、もう一人の自分はあまりに弱いもの……。弱い自分を認めることは、とても勇気がいるわ」
「君は……、それを隠していたかったんじゃないのか? アイツが言っていた、詳しく知ることすら心が拒否することがあると。なぜ、いまそう易々と話す気になったんだ?」
アイツとは、ジェラルドのことだろうか。
今回の件でレミエルに口添えできるような人間は、この学院では彼くらいしか思い浮かばない。
(へー、ジェラジェラにもそんな感受性があったのね。なんだか意外だわ)
失礼なことを考えながら、盤上の兵士の駒を摘まみ上げる。
「なぜかと言われれば、答えは簡単よ。どうせ貴方は隠していても暴きたくなる性分なのでしょう。なら、自分の心の整理をつけるためにも踏み台にしてやろうと思ったのよ。心の整理に最適な手段は人へ話すこと、オートクライン効果ね」
「――――……踏み台? 僕が?」
晴れやかな表情で告げられた言葉。
いつものレミエルならば、「オートクライン効果とはなんだ?」と問いかけていただろう。
だが踏み台にすると宣言されたのは生まれてはじめてで、驚きのあまり口を開いたまま固まってしまう。
「ああ、安心して。別に貴方からの具体的なアドバイスなんて期待していないし、できるとも思っていないから」
ソフィーは慈愛に満ちた瞳で、毒を吐く。
「私はね、ずっと欠けることのない強さが欲しかったのよ。動じず、怯まず、ただ真っすぐに自分自身を信じて歩けるだけの強さが欲しかった。そうすれば、守りたいものを己の力で守れると自惚れていたから……」
そしてもう一つ。
祐の弱さと醜さが、
許せなかった。隠しておきたかった。
けれど――――しょせん自分は自分でしかなかった。
転生してもそれは同じだ。
「クリスティーナお姉様は、まさに私の心の弱さを埋めてくれる存在だったわ。優しく、美しく、気高く」
彼女なら、もう決して会うことのできない涼香のような存在になってくれると、心の底で縋っていた。
「でも、そもそもが違ったのよ。私は自分の弱さを埋める必要などなかった。だって、それは埋めようとしても埋められるものではなく、乗り越えようと意地になるものでもなかったから」
話しながらもゲームは続いていた。
ソフィーから「どうぞ」と次を促され、レミエルは己の騎士を動かすが、緩手。自分でも驚くほどゲームに集中できなかった。
これは、話術として狙ってやっているのだろうかと、レミエルは頭を悩ませる。
しかし話を遮る気にはなれない。
それにリチュは心理戦。相手の心を乱すのも戦略の一種だ。
「私は一番大切なことを忘れていたのよ。私が強さを欲するのは、私を愛する人たちのため。そのために強くなりたかったのだと」
ソフィーは言葉を切ると、ゆっくりと兵士の駒を指さした。
「……ねぇ、ゲームのルールって現実的に考えてみると不思議よね。兵士の駒は一番奥へと進めば、駒を昇格できる。最善なのは、やはり女王の駒よね。でも兵士って男じゃない、それが女王に昇格って笑うわ」
「駒を人になぞらえる必要があるのか?」
ただの雑談だと思ったのか、レミエルは断ち切るように言う。
「貴方は気にならないの? 戦いの幕を閉じた後、女王へと昇格した兵士の駒が、いったいどんな人生を歩むのか……とか」
「考えたこともない」
「私は気になるわ。だって――――」
あえて口にはせず自嘲めいた瞳を湛えると、レミエルは盤上から目を離し、探るような視線を向けた。
「ちょっと待て。いま君はリチュの話をしているのか。それとも……」
「それは想像にお任せするわ」
一転して無邪気な笑顔。
――乱される。勝利への道筋も、彼女の真意も、なにもかもが。
発言と表情、息遣い、すべてを総合し、思考の組み立てを行ってもなおソフィーの心中ははかれず、レミエルはあからさまに柳眉を顰めた。
「本当に、僕はただの踏み台だな……」
「最初にそう宣言したでしょう。ほら、早く次を指して」
せっつかれ、レミエルは定まらない思考でゲームを続けた。
そして勝敗の時――――ソフィーは最後の駒を移動させると高らかに告げた。
「はい、これで私の勝ちね」
「…………」
打ち取られた王の駒を手に微笑むソフィーを、レミエルは目を眇めて見つめた。
たいして時間がかかったわけでもないというのに、なんだかひどく疲れていた。
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