ソフィー・リニエールのみる夢 ―贈られた言葉Ⅱ―
パチリと目を開いた瞬間、華やかな文様の手織り絨毯の色彩が映る。ロイヤルブルーを基調とした絨毯は、サニーがソフィーのお気に入りのドレスによく似た色だと、この部屋に選んだものだ。
「涼香姉さん……?」
辺りを見渡しても、いましがたまで傍にいてくれたはずの涼香の姿はもうどこにもなく。静まり返ったソフィーの自室が広がるだけ。
(いまのは……前世の記憶?)
確かに過労で倒れ、涼香に看病してもらったことはあった。
けれど、数日続いた高熱で朦朧としていたせいか、会話のやり取りまでは記憶から抜け落ちていた。
ただあの日から、やけに頭がスッキリとして、心が軽くなったような気はしていたが。
(……そっか。オレが忘れていただけで、救いはいつだって差し伸べられていたんだ)
かすかな寂寥感が瞳を潤ますけれど、彼女の言葉だけは忘れずに胸の中に残っていた。
――――幻滅されることを恐れて、一人で答えを出さないで。一人で殻に閉じこもってしまわないで。あなたが大切に想うほどの人が、そんなつまらない人間のはずがないでしょう。
そうだ。前世も今世も、自分が敬愛する人たちは、そんな人間ではない。
(クリスティーナお姉様のことを、純粋に慕うことができなかった自分自身に幻滅して、もう二度と会えないような錯覚に陥っていただけだわ)
だが、もしそんなことを本当に実行すれば、クリスティーナを戸惑わせ、傷つけることになる。
「……もし私が、お母様のようにお慕いしていると告げたら、クリスティーナお姉様はなんて仰るかしら?」
口に出して問うなど絶対にあり得ない質問。
あえて考えてみれば、答えはサラリと出てきた。
きっと、――――きっとほほ笑むのだろう。
口角を上げ、美しく優しい笑みで。
『まぁ、それはとても楽しそうだわ。でも、そうなると“妹”のソフィーはいなくなってしまうのかしら? それはさみしいわね。どちらも存在してくれないかしら』
口元に人差し指をあて、考え込むクリスティーナが容易に頭に浮かび、勝手な想像ながら笑ってしまった。
「そうよ……。だから私は、あの方をお慕いしたのよ」
揺るがない心と、溢れる慈愛に触れたからこそ、この人を守り慕うと決めたのだ。
それが前世、母親に愛されなかったゆえの穴埋めが、根底にあったとしても。
どんな理由だったとしても、この心に偽りはない。
むくりと起き上がり、ドレスの皺を伸ばす。
いくらサニーが毎日きれいに掃除してくれているとはいえ、絨毯の上で転がって寝るなど、淑女としてはあり得ない行いではないか。
夢を見る前まで沸き上がっていた絶望は、鳴りをひそめていた。
絨毯の上に散らばる日記を手に取り、しずかにそれを元あった机の中にしまう。
そのさい、壁に掛けられていた大きな姿見に己の姿が映り込んだ。
絹のように艶めいた長い黒髪に、若葉を思わせる新緑の瞳。小ぶりな唇はほのかに色づいていて、可憐な少女にしか見えない。
記憶が戻ったあの日、男爵令嬢ソフィー・リニエールとして、立派な淑女になろうと誓った。
自分の運命を切り開き、前へ進める女性として生きたかった。
そうすれば、弱かった自分を包み隠せると思っていたのだ。
「日記を破り捨てることができない私は、弱い人間かしら?」
そっと、鏡に映る自分に手を伸ばす。
ソフィー・リニエールは弱くあってはいけない。
強く、たくましい子でいなければ……。
――――弱かったとして、なにが問題なのよ。
またもや涼香の声がよみがえり、ウッと詰まる。
「問題、問題点は……」
止まっていた思考回路を叩き起こせば、それは溢れるように出てきた。
祐は基本卑屈だし、自己評価も自己肯定感も低い。たまにとんでもない方向に自我を出して、“王の剣”でもこれでもかと引っ掻き回してくれた。あと、親友のこととなると視野狭窄に陥る――――。
「ダメじゃない、コレ?」
我ながらいいところがほぼないじゃないかと眉を顰める。
逆にいいところはどこよ!? と頭を悩ませていると、控え目なノック音がした。
「ソフィー様、夕食をお持ちしたのですが……」
「え?!」
サニーの声に、慌てて時計を見れば夕刻を過ぎていた。
本来夕食を作るのはソフィーの担当なのだが、気を利かせて用意してくれたようだ。
「ありがとう、サニー。一緒にいただきたいわ」
扉をあけ、いつもと同じ声音で話せば、サニーは見るからにホッと顔をゆるませた。帰宅したソフィーのただならぬ雰囲気に、彼女がどれだけ心配していたか、その表情だけで読み取れる。
夕食は普段よりも静かだった。
サニーは、明らかに様子がおかしかったであろうソフィーの態度を問うこともなく、普段通りの仕草でスープを口に運んでいる。目が合うと、ときおりほほ笑んでくれ、それがとても落ち着いた。
(そっか、これは……)
前世の親友が与えてくれた優しさと同じだからだ。
無理に聞き出さず、ただ傍にいれてくれる。あえて触れない優しさ。
問うことで心の整理をさせてくれる涼香とはタイプが真逆で、均衡がとれた姉弟だった。
どちらも祐にとってはありがたく、かけがえのない存在だった。
(やっぱり……、消せない)
前世の記憶を。
大切な人たちを、忘れることができない。
だが、それは同時に諸刃の剣となる。
ジレンマに、つい目の前に座るサニーに問いかけた。
「ねぇ、サニー。もし私が弱い人間になってしまったら……幻滅する?」
「弱いソフィー様、ですか?」
サニーは少し頭を傾げ、ふふっと笑った。
「あまり想像できませんね」
「そうよ……ね」
そう思われるように振舞ってきたのは他ならぬ自分だ。
いまさら弱い自分をさらけ出せるわけがないのだと拳を握りしめていると、サニーが涼やかな声で言う。
「初めてソフィー様をお見かけした日のことを、いまも鮮明に覚えています」
「ああ……。孤児院の調理場を借りて、私が手料理を振舞ったら、『なんだコイツ』って、バートに怪訝な顔をされたわね」
一番印象深い事柄を口にすると、サニーはゆっくりと左右に頭をふった。
「いいえ。私が初めてソフィー様をお見掛けしたのは、その日ではありません」
「え?」
てっきり初めて孤児院を訪れた日のことを言っているのだと思っていたソフィーは目を瞬く。
「それよりも数日前のことです。ソフィー様は、市場で肉屋の亭主とあつく談義されていらっしゃいました」
どう見ても裕福な貴族のお嬢様といったドレス姿の少女が、平民とイキイキと話し込んでいる姿は奇異で、とても目立っていたそうだ。
「そのうち周りの屋台の亭主たちも加わって。ソフィー様は、数人の大人に囲まれてもまったく動じることなく、その場にいる全員を鮮やかに手玉に取っていらっしゃいました」
「て、手玉にとっていたわけでは……」
なんだか人聞きが悪い話を、うっとりとした表情で語られている。
ソフィーは慌てて否定しようとしたが、サニーは話を続けた。
「あの時、ほんの一瞬、ソフィー様と目が合ったんですよ」
「それは……」
覚えている。
その時はサニーだと知らず、ただ見知らぬ少女と目が合ったという認識だったが。
孤児院の院長と、数人の子供たちが連れ立って歩く姿は、市場で買い物をする親子には見えなかった。
肉屋の亭主に問いかけ、はじめてタリスにも孤児院があることを知ったのだ。
「私には兄がいましたし、エリークもよく話し相手になってくれました。いつも明日の食事が賄えるかどうかという生活ではありましたが、院長先生や兄たちが、私を心配させまいと配慮してくれたことも知っています。貧しいなりに幸せだったと思います」
静かに語る口調は、バートたちへの感謝の念に溢れていた。
しかし、そういいながらも、サニーの栗色の瞳が物憂げに伏せられる。
「でも……ふと、気持ちが遠く離れていくような錯覚を感じることがありました」
兄のバートは年長者として孤児院の助けとなり。
幼馴染のエリークは地頭の良さから簡単な計算を得意としていた。
それでは自分は?
この孤児院のために、何ができるだろう?
自分の存在意義は、どこにあるのだろう?
「自問自答する日々の中で、だんだん自分という存在すらぼやけて……分からなくなっていました」
それが漠然とした未来の不安からきていることを、ソフィーは前世の実体験から理解できた。
慈しみ守ってくれる親がいない子供は、無力でいられる時間がとても短い。
それゆえに、早く大人になろうとして、心と体のバランスをうまく保てず、苦しむ。
「私はずっと、苦しかったんだと思います……。なにもできないことが。弱い自分が恨めしかった」
「サニー……」
「でもあの日、ソフィー様は私に気づいてくれました。私という人間が存在していることを、目にとめてくれたのです。……ただそれだけのことが、私にはとても嬉しかった」
サニーは伏せていた瞳をあげると、まっすぐにソフィーを見つめる。
「ソフィー様は、私たちにこの方がいれば大丈夫だという安心感をいつも与えてくださいました。どうしようもなく無力な私たちに、道を拓いてくださったのです。……望むときに、望むものをいただくことを、人は奇跡と呼ぶのでしょうね」
そういうとサニーは席を立ち、ソフィーの前まで歩み寄ると、ゆっくりとした仕草で床に膝をついた。
優しい眼差しを向けられ、暖かな両手がそっとソフィーの手を包み込む。
「ソフィー様はソフィー様です。強くあろうとする貴女も、弱さを見せまいとする貴女も、私たちにとっては大切な貴女なのです。ですが、一人で強くあろうとしないでください。それでは私たちがいる意味がありません。私たちは、貴女をお守りするために傍にいるのですから」
重なる指先から、サニーの体温が流れ込む。想いと一緒に伝わるそれに、ソフィーは思っていた以上に、自分の身体が冷え切っていたこと知った。
「小さな世界の片隅にただ存在していただけの、誰も目を向けないような私たちを見つけてくれた貴女だからこそ、お傍でお守りしたいのです。――――それだけは、決して忘れないでくださいね」
サニーの言葉に、
生まれた時から、誰にも目を向けられなかった。
世界は、自分以外のところで回っているのだと思っていた。
気配を消し、存在しない人間になろうとしていた。
そんな自分を見つけてくれた友人がいた。
(……そうだ。前世の記憶があったからこそ、みんなの力を借りようと思ったんだ)
前世の幸福を、自分も誰かに分け与えたかった。
親がいなくとも。
環境に恵まれていなくとも。
土壌さえ整えば、いくらだって花は咲くのだと知っていたから――――。
(すべて、考え方ひとつなのかもしれない……)
前世の記憶がなければ、きっと孤児院にいこうなどと考えなかったかもしれない。
クリスティーナのこともそうだ。
前世の母親のことがなければ、彼女の傍にいることを恐れ多いと拒んだかもしれない。
(祐の苦しみがあったから、私はみんなに出会えた)
ソフィーは強く瞼を閉じると、次の瞬間には口の端を持ち上げ、あでやかにほほ笑んだ。
「ありがとう、サニー。とても……とても心強いわ!」
輝く新緑の瞳が、眩しいほどに煌めく。
一点の曇りもない鮮やかなそれは、サニーが出会ったその日からずっと敬愛してやまない少女の笑顔だった。
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