ソフィー・リニエールのみる夢 ―贈られた言葉―

 

 頭が痛い――――。



 腕も足も、体躯すべてが泥に沈み込んでいるかのように動かず、目を開くことも億劫だ。


 不快感と苦痛にうめき声をあげると、誰かの柔らかな指が額に触れた。


 少しヒンヤリとした体温が心地よくて、はなんとか瞼を開く。


「あら、起こしちゃった?」


 目の前には、蜂蜜を垂らしたかのような艶やかな唇と、意志の強さを主張するような双眸。


 あれ、この人は……。


「涼香姉さん……?」


 親友の面立ちによく似た美女は、天馬の姉である涼香姉さんだった。


「ここ、オレのアパート……だよね?」


 必要最低限のものしか置かれていない簡素な自室を見渡す。

 なぜかひどく懐かしく感じるのはなぜだろう。


 多少の違和感を抱えながらも、ベッドに張り付いていた体を引き離す。


 なんとか上半身は起こせたが、いつもは意識せずにできる簡単な動作が、今日はやたらと時間がかかった。


「か、体が重いっ……!?」

「そりゃあそうでしょう、過労で倒れたのよ。覚えてないの?」


 過労?


 なんだろう、これまたすごく懐かしい響きに聞こえる。


「祐、倒れるならせめて職場で倒れなさい。今回は天馬がすぐに見つけたからよかったけど、一人暮らしの部屋じゃ倒れても誰も助けてくれないのよ」


 怒っているけれど、憂慮の滲んだ声で窘められ、やっとこの状況に合点がいった。


 オレは仕事から帰ってきた途端、鍵も閉めずに玄関で倒れたのだ。それをたまたま終電を逃し、オレのアパートに泊めてもらおうとした天馬に発見された。


「天馬、怒ってたわよ。いつか体を壊すって忠告したにもかかわらず、これくらい平気だって言い続けた結果がコレだなんて、幼児以下だって」

「はい……」


 ああ、そういえばぶっ倒れて運ばれながら言われた気がする。


『深夜残業から帰ってきて、ただでさえ少ない睡眠時間削って勉強するなんて生活やめろって言ったよな? 赤ん坊だって体に不調が出れば泣いて知らせるってのに、お前は赤ん坊以下なのか?』


 辛辣な言葉には大層な怒りが込められており、その場は気絶することで回避したが、いまだに呆れと怒りが収まってくれたわけではないようだ。


 完全にやらかした。普段どうでもいいとばかりになんでも受け流す天馬を怒らせてしまった。


 “あの時”ですら、天馬は怒りの感情なんて発しなかったというのに。


(…………あの時って、なんだったけ?)


 考えこもうとした途端、ズンと頭が重くなり、ただでさえ弱まっている体が悲鳴をあげた。


 それが表情に出ていたのだろう、すぐに涼香姉さんに休むよう背を倒される。


「ほら、しばらくは安静にしてなさい。私と天馬で交互に看病してあげるから」

「えっ!?」


 どこか嬉しそうに微笑まれるが、そんなこと頼めるはずもない。


「オレのことなんていいよ、大学の勉強も大変なのに」


 医者家系の跡を継ぐために医大に通っている彼女は、本来なら自分よりも多忙の身だ。


 勝手に倒れたオレの看病など、とても頼めない。

 長男だというのに家業を継ぐ気は一切なく、医療とはまったく別の大学を選んだ天馬ならともかく。


 しかしそれとなく辞退を伝えると、みるみる涼香姉さんの柳眉が上がった。


「仮にも医師を志している私の方が、天馬よりも役に立つわよっ。天馬なんてお粥一つ作れないじゃない!」


 オレもアイツにお粥を作ってもらおうとは思ってないよ。


 焦げた米なんて米農家さんに対する冒涜だし、焦がした鍋を洗うのはたぶんオレだ。


「食事は、冷蔵庫に作り置きもあるから作ってもらわなくても……」

「まだ動く気力もないんだから、つべこべ言わない!」

「あ、はい……」


 仁王立ちで見下ろされ、すぐさま口を噤む。


 涼香姉さんには逆らわない、逆らえない。


 これはもう、長年で染みついた癖であり、土壌動物が食物連鎖の頂点にもの言えないのと同じ自然の摂理なのだ……と思うことにしている。


(でも、確かに冷蔵庫まで歩くのすら、いまは気力が湧かないかも)


 頭痛と倦怠感が同時に襲ってきて、さっき少し体を起こしただけの動作も、もう一度すると思うと億劫さが先に立つ。


 就職と同時に一人暮らしを始めて半年。たった半年で倒れるなんて。


 疲弊した脳は微睡みながらも、己の不甲斐なさと自己嫌悪を忘れさせてはくれなかった。


(なんでもっと上手に生きられないんだろう……)


 施設を出て、やっと人に迷惑をかけずに一人で生きられると思っていたのに。


 誰の手も必要としない生活をおくれば、もっと息がしやすいと信じていたのに。


(なのに、蓋をあければこの体たらく)


 情けなくて涙が出そうだ。


 それが高熱からきている生理現象だとは気づけず、オレは日焼けでくすんだ天井を見つめながら、目を覚ます前までみていた夢のことを思い出していた。


「祐、冷却シート変えるわよ」


 洒落っ気のないテーブルに置かれた袋から取り出した冷却シートを、手慣れた仕草で取り換えてくれる涼香姉さんに、オレはポツリと呟いた。


「……さっき、変な夢をみてたんだ」

「ん? どんな夢?」

「オレが……男じゃなくて、女の子に生まれる夢だった」


 こんな話を、なんでオレは涼香姉さんに話しているのだろう。

 性転換の夢なんて、聞かされた方はドン引きだろうに。


 分かっていながら、それでもオレは熱に浮かされたように話を続けた。


「その子はオレとは真逆で、強い意志と怯まない心で真っすぐに突き進む子だった。だからかな、目が覚めて、それが夢だと気づいた瞬間、自分でも馬鹿な考えが頭をよぎって……」


 感情がうまく制御できない。普段なら絶対に言えないような戯言が、どうしても我慢できないとばかりに口からこぼれてしまう。


「なにが頭をよぎったの?」

「……オレが、女の子に生まれていたら、――――母さんはオレを捨てなかったのかな……って」


 男だったから捨てられたわけじゃない。

 あの人は、子供がいらなかったんだ。


 でも“もしも”を考えてしまうのだ。


 “もしも”自分がもっといい子だったら、あの人は愛してくれただろうか?


 “もしも”自分がもっと大人だったら、あの人は必要としてくれただろうか?


 数えきれない“もしも”を生みだして、同時にそんな自分に失望する。


「ほんと…っ、自分でも呆れるくらいに無様で、なんでオレはこんなに弱いんだろうって……、なんでもっと強く生きられないんだろうって、情けなくなる」


 か細い声でこんな愚かで滑稽な話をするオレを、涼香姉さんは黙って聞いてくれた。それが余計に情けなくて、隠すように腕を顔にあてる。


「こんな不完全なままこれからも生きていかなきゃいけないことに、たまに絶望するんだ……」


 無くしたピースは、二度とこの手に戻ってこない。

 けっして完成しないと分かっているジグソーパズルを組み立てていかなければならない人生に、どれだけの意味と価値があるのか、オレには分からなかった。


「いつになったら過去の事なんて全部忘れて、本当の意味で強くなれるのかな?」


 ああ、あんな夢なんてみなければ、こんな弱音を涼香姉さんに吐いたりしなかったのに。


 なんでオレは、女の子になるなんて意味不明な夢をみたんだろう。


 自分の情けなさに歯を食いしばって堪えていると、六畳一間の狭い部屋には似つかわしくない華やかな美貌をまとった親友の姉は、ベッドの端に腰かけ、静かに言った。


「祐――――どれだけ悩んで苦しんだところで、あなたの性格上忘れるなんて無理なんだから、無駄な足掻きはやめなさい」


 至極当然の顔で断言され、思わず「へ?」と抜けた声が漏れる。ついでにつぶっていた目も開く。


 涼香姉さんは、オレの情けなくも感傷的に吐いた言葉を同情的に捉えることもなく淡々と続けた。


「ほんの一時、苦しみや悲しみを忘れることができたとしても、心や体が弱まれば途端に傷が開いてジクジクと苛むし。夜の静まり返った闇の中で、ふと思い出してつらくなったりもする。永遠にそういうことの繰り返し、完全に忘れるなんて土台無理な話なのよ」

「えぇ~……」


 希望がない!


 慰めの言葉を期待していたわけじゃないけど、思っていた以上に望みのない回答に、オレは呆気に取られる。


「あの……もっと医大生らしい優しい言葉を選んでくれると……」

「あら、私はいまカルテをみて診断してるんじゃないわ。性格、行動、生活習慣をすべて知っている祐という人間をみて事実を述べてるのよ。そもそも心が強い弱いなんて、一体誰の物差しではかった尺度で捉えているのか知らないけど、たとえ弱かったとしてなにが問題なのよ」

「男のくせに、この年になっていまだに母親に粘着している弱さって問題だよね?」


 あ、自分で言っててつらくなった。言葉にすると余計に情けなさが立つ。


 しかし、そんなオレを、涼香姉さんはサラリと一蹴した。


「思い悩むことに男も女も関係ないでしょう。それに、子供が母親に愛されたいと願うことのなにが悪いのよ。祐は同じ境遇の人が目の前にいたら、同じように思うの?」

「え……」


 確かに他者感覚としてとらえれば、そんな風には考えられない。


「祐って、自分には厳しいわよね。自分で自分を生きづらくする必要なんてないのよ」

「でも、弱さは脆さにつながる。誰だって意志薄弱な人間は厭うし、それが原因で迷惑をかけられれば……」



 ――――人はすぐに離れていく。



(そうか、オレが一番恐れているのはか……)


 母親にすら捨てられた子供なんて、きっと誰にも必要とされない。


 根底にある卑屈な思いが、母親に愛されたかった、必要とされたかったと求める心に繋がっているのだ。


 だってオレは、いまさら実の母親に会って愛されたいなんて少しも望んでいない。


 ただオレは、オレを慈しんでくれた人たちに厭われたくないだけ。


 多忙な身で面倒をみてくれようとする親友家族に見限られることが、なにより怖いのだ。


 黙り込むオレに、涼香姉さんは言葉の先を悟ったようで、いつものトーンより声を低めた。


「つまり、迷惑かけたら愛想を尽かされると思ってるわけね」


 涼香姉さんは、昔から怖いくらいにオレの思考を読み取る。


 この辺りが女性ならではの鋭さなのだろうか。

 姉弟で、同じ家で育ったというのに、「ふーん。あっそ。で?」くらいしか会話を続けない天馬とは大違いだ。


「それは祐の想像でしょう? つまり思い込み、勝手な悲観的な妄想ね」


 わぁ、身も蓋もない。


「それって相手を思いやっているようでいて、実のところは誰のことも信じてないってことよ」

「そ、そんなこと……っ」

「なら、信じなさい」


 声を荒げて否定しようとしたオレより先に、涼香姉さんが発する。


 静かな声音だというのに、部屋の空気を揺らすような力強い言葉だった。


「幻滅されることを恐れて、一人で答えを出さないで。一人で殻に閉じこもってしまわないで。あなたが大切に想うほどの人が、そんなつまらない人間のはずがないでしょう」

「…………うん」


 天馬も、涼香姉さんもそうでなかったからいまも傍にいてくれることを、オレは本当の意味で分かっていなかったのかもしれない。勝手に一人で恐れて、怯えていただけで。


「まったく! どうせ嘆くなら、過労で倒れでもしなければ弱音一つ吐けないくらい私たちのことを頼りにしようとしない、その意固地なところを嘆いてほしいものだわ」


 あ、お説教はまだ終わってなかったんですね。


 オレは涼香姉さんのお説教の恐怖から逃れたい一心で、狸寝入りをしようとした。が、その必要もないほどに、すぐに眠りが襲い掛かってくる。


 先ほどまでの、暗澹としていた心と体がいまは軽くなっていた。


 よかった。次、目が覚めても、もうこんな弱弱しい自分を出さずに済みそうだ。


 ふわふわと優しい綿毛に包まれているような感覚に、オレはただ安堵だけを感じていた。




 完全に深い眠りに落ちたころ、誰かが小さく囁く。


「ねえ、祐。あなたは自分のことを無価値みたいに言うけれど、にとって、あなたは悲しみを癒してくれた大切な人だってこと、忘れないでね――――」

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