ソフィー・リニエールのみる夢 ―思慕Ⅳ―

 

 バタンと自室の扉を閉め、見慣れた風景を前にしても、ソフィーの心が休まることはなかった。


(みっともない……)


 逃げ出してしまった。

 前世の記憶を思い出してから、はじめて。

 レミエルに暴かれた潜在意識に、思考すら拒絶して。


 忠告してくれたジェラルドのことも、早々に寄宿舎に戻ってきたソフィーをどうしたのかと気遣わしげに見つめるサニーのことも、いつものソフィー・リニエールとして対処できなかった。


 ほんの一刻前までは、優雅な少女をいくらでも演じられたというのに。


(演じる……か。しょせんオレはオレでしかないのか?)


 どれだけ可憐な少女の姿をしていても、中身が二十五歳のどうしようもない男のままでは、最初からこの転生に意味などなく、まやかしの虚構に過ぎなかったのかもしれない。


(駄目だ。全部が悲観的にしか考えられなくなってる)


 情けなかった。“王の剣”の生徒たちに、さんざん偉そうなことを言っておきながら、ソフィーの仮面が剥がれ、中村祐一個人になってしまえばなんと心もとないことか。


 すがるようにそっと右手の小指を見つめれば、クリスティーナから贈られた指輪が燦然と輝いていた。


 中央を彩る青薔薇は、クリスティーナの瞳と同じ色。


 あの日からずっと、小指に視線を向ければその色があることが嬉しく、誇らしかった。


 けれどいまは暗澹たる気持ちだけが胸に巣くう。


 分かってしまったのだ。


 なぜ思春期の少女たちに対し、恐れを抱いていたのか。

 なぜクリスティーナの笑みに、それが解消されたのか。


 前世の母親が祐を生んだ年は、いまのクリスティーナと同じ十六歳だった。意図せず、その年頃の少女に苦手意識を持っていたのは、前世の母親に影響を受けていたからに他ならない。


 あの日、温室で向けられたクリスティーナの笑みは、ただヒステリックに我欲だけをまき散らしていた前世の母親と違い、成熟された気品あふれる大人の女性のものだった。


 十六歳にして、大人と少女どちらも持ち合わせている人。


 第一王子の婚約者、未来の王妃という重責を担いながら、過酷さを滲ませない胆力はどこからくるものなのだろう。


 ああ、こんな人もいるのかと、胸に光が満ちていくようだった。


 彼女に育てられる子供たちはきっと幸せだろうな、と子供にほほ笑む彼女を連想し、その姿を美しいと思った。


「――――あさましいッ」


 自分では埋められないものを、足りないものを、彼女で埋めようとする己の浅ましさ、欲深さに吐き気がした。


 じわり、じわりと胸に黒いしみが広がる。

 銀食器が毒で錆びていくように、心の中で純粋だと信じていた想いさえ朽ちていく。


 醜い感情を吐き出すように床を見つめ胸をつかむが、よどんだそれが自浄されることはなく、いつまでも渦巻いて離れない。


(こんな感情、ソフィー・リニエールらしくないッ。この子にはいらないものだ!)


 祐が得られなかった母親への思慕を、この黒髪の少女が醜く欲するなど許せない。


 その対象がクリスティーナであることも、彼女を冒涜しているようで己が憎らしかった。


 次にクリスティーナに会えた時、自分はどんな顔をすればいい?

 前と同じ邪気のない笑顔で微笑むことができるだろうか?


(なんで強くなれないんだッ……。二度目の生を生きながらでさえ、なんで強くなれないんだよ、お前は!)


 両手で顔を覆いながら、喉を苦くせり上がってくるものを必死で飲み込む。


 うだうだと弱い、前世の自分が苛立たしかった。


 なぜお前は、男のくせにそんな風にしか生きられなかったんだ。

 なぜこんな枷を、この子ソフィーが背負おう必要がある。


 いらない

 いらない

 こんな不要な感情、捨ててしまいたい――――!


「…………そうよ。すべて捨ててしまえば……」


 前世の記憶も、なにもかも。


 ソフィー・リニエールにいらないすべてを。


 そうすれば、過去に囚われ足元をすくわれることもない。


 体が動いた先は、書斎机の前だった。


 樫材の机の一番下の引き出しをあけ、整列した何冊にもわたる革装丁のノートを無我夢中で取り出す。


 それらはすべて天馬に宛てた日記。


 六歳のあの日、前世の記憶がよみがえってからずっと綴ってきた。日記という名の、宛てのない親友への手紙だ。


「こんな風に、いつまでも前世にすがっているから強くなれないのよ……」


 何冊にもわたる分厚いノートは、月日と執着の証だ。


 前世にすがってなにになる。


 親友にだって、もう二度と会えないというのに。


「捨てて……最初からなかったことにすれば……!」


 引きちぎろうとした手が、寸前と止まる。


 捨てる?

 なかったことにする?


……捨てるの?」


 いらないから捨てる。

 邪魔だから捨てる。


 そうやって自分を守るためになにかを切り捨てるというならば、と同じじゃないのか?


 不要だと、子を切り捨てた前世の母親と――――。


「――――ッ」


 涙をこらえながらうずくまる小さな男の子が脳裏をよぎる。

 吹きつける風の音と葉擦れに怯えながら、それでも母親が迎えに来てくれることを待ち続けた幼子の姿が。


(ちがう……ちがうわっ、ソフィーが捨てるんじゃない!)


 この子は、そんなことはしない。

 ソフィー・リニエールは、泣いている子供を見捨てたりなんてしない。


 記憶を思い出してからずっと、誰かを見捨てるようなことを忌避してきた。


 でも、結局それも、祐がされたくなかったことだから?

 己が受けた苦痛を、誰かが感じることが怖かったから?


 ソフィーと祐の意識が混在するバラバラの思考が、頭を苛んだ。


(どうすればいいの? オレはどうしたら……)


 もう、なにが問題で、なにが解決策なのか分からない。

 自分はなにをしたいのか、どうしたいのか考えられない。


 いつもは最善をみつけようとまわる思考が動かなかった。


「なにも――――考えられない」


 すとんと力が抜け、床にへたり込む。 


 ああ、ダメだ。

 何もかもがすべて闇で塗りつぶされる。


 深いふちに沈むように、ソフィーは目を閉じた。

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