拝啓 天馬 そう、すべては必然だったのですⅢ
「貴方たちが一度目に謝罪に来られた日、私は黒星を必要ないと断言したけれど、お詫びして訂正するわ。私に必要ないのは黒星ではなく、
そう言って身を乗りだしてほほえむ少女に、エーヴェルトの足が思わず一歩後退する。
まるで狙いを定められた草食動物のような気分だった。
「まぁ、そうは言っても一刀両断に切り捨てるのは酷でしょう? だから、水準を上げる階段を用意してあげたわ。これでも大変だったのよ、講師陣の皆様を説得するのは。私がお話しした数々は、本来自分たちで気づき培わなければならないもの。己の未熟さを知るために、あえてすべてを教えようとしない学院の意思に背くもの。それを貴方たちの代だけ、近道を用意してあげたのだから」
「――ッ。それはどうも痛み入ります! ですが、何一つ勝てぬと言うのは過言かと思いますがねっ」
これだけ能無しだと馬鹿にされれば、意地でもこれ以上引けない。エーヴェルトは、最後の自尊心で目の前の少女を見据えた。
「……あら、そうかしら? でも、知識も」
一歩、少女が近づく。
「経験も」
また一歩。
近づくたびにカツンと鳴るヒールの足音が、エーヴェルトにはまるで何かを知らせる警鐘のようだった。
「すべてにおいて、――――私は貴方に勝てると思うけれど?」
ワルツでも踊るかのような距離までつめられ、真っ直ぐに色の濃い翠玉が向く。
そのあまりに強い光を放つ瞳には、本能的に視線を逸らしたくなる。しかしここで顔を背ければ、逃げ腰と皮肉られるのは必至。
「言っておきますが……、貴方は女性なのですから、力では叶わぬかと」
「そうね。力では負けるかもしれないわね。でも」
そう言って、少女の左手がエーヴェルトの頬に伸びる。
ゆっくりとした仕草で。
こちらが慌てふためく姿を見たいのか、それとも反射的に体が逃げようものなら、なにを恐れているのかと揶揄うつもりか?
ならば怯むつもりはないと、エーヴェルトは彼女の左手に意識を向けた。
だが、それがフェイクだと気づいたのは、指先の熱を感じた瞬間だった。
しっとりとしたあたたかな指がエーヴェルトの頬に触れると同時に、彼女の右手には短剣が握られていたのだ。
「は……?」
「どれだけ力があっても、やすやすと己の武器を奪われるようでは、それ以前の問題では?」
「――――ッッ!!」
それは紛れもなく、自分の
左腰に差していたはずのものが、昨日のレミエル同様、いまは自分の喉元を狙っているという事実に、冷や汗がどっと流れる。
昨日のアレは、キースがうっかりしていたために奪われただけで、自分はそんな間抜けではないと思っていた。自分はそうならないと思い込んでいた。
そもそもエーヴェルトの短剣は細身といえど、軽いわけではない。なのに抜かれた瞬間すら、奪われたことに気づけなかった。
(左手に意識を向け過ぎた……)
ゆっくりと一歩一歩近づき、わざと足音を鳴らしたのも、緊張感と不安感を煽るため。目を逸らせばまた皮肉が飛ぶと思わせ、わざとこちらのプライドを揺さぶり、視線を右手から排除させ、動く。
相手は少女だというのに、これではまるで騎士相手の心理戦を加えた決闘だ。
目の前にいる少女は、本当に少女なのか。エーヴェルトは混乱する。
レミエルが放った、「本当に女なのか?」という問いが、今になってよく理解できる。
これは本当に――――女か?
(佩剣の抜き方だって手慣れ過ぎだろう…っ!!)
抜かれ、喉元に突きつけられた瞬間まで気づかせぬほどの腕前を持つ者など、この学院にだってそうはいない。
優雅に剣を持ち、それを相手に突きつける行為を平然と行った少女は、エーヴェルトの短剣を眺めみて、「キレイな細工ね」と評しながらニコリと笑った。
こちらが固まっていることなどお構いなしで、しばしそれを手のひらで弄んだかと思うと、なにを思ったのか、今度はそれを後ろに投げ飛ばした。
細身の短剣とはいえ、技術がなければすぐに落ちるだろうそれは、しなやかな体捌きで真っ直ぐに彼女の狙い通りの場所へ飛んだ。
後ろで控えていた――――ジェラルド・フォルシウスのもとへ。
「!!」
自分の奪われた短剣が友人の方へ投げ飛ばされた瞬間、思わず右手を伸ばしたエーヴェルトだったが、ジェラルドの方はいつもの通りの無表情さで、ソフィーの投げたものを難なく片手で受け止めた。
投げた方も、受け止めた方も、どちらも始終無言。
もうなにを見せられているのか、頭が混乱し過ぎてエーヴェルトには理解できない。
分かることはただ一つ、目の前の少女が普通ではないという事実のみ。
「まぁ、受け止められるわよね」
少女が放った言葉は、当然とばかりのおざなりなものだった。少しだけ悔しさが滲んでいたのだが、エーヴェルトはそれに気づくことなく叫ぶ。
「なにを当たり前みたいにっ、危ないでしょうが!」
「貴方こそ、なにを言っているのよ。女の子が投げたものに当たるような護衛なら必要ないでしょう」
それはその通りかもしれないが、よく自分のことを“女の子”などと表現できたものだと絶句する。
正直、この少女が己を悪魔と称しても否定せずに頷いてしまうだろう。
戦慄くエーヴェルトの憤慨など気にも留めず、ソフィーは顔色一つ変えない男に問う。
「ジェラルド・フォルシウス。貴方、昨日のレミエルとの一件、私の動きを止めようと思えば最初から止めることができたわよね。なぜ動かなかったの?」
ジェラルドの網膜は、確かにソフィーの動きを追っていた。瞬発力も、それに必要な筋肉も持ち合わせている。しかし、レミエルに刃を突きつけるまで、その体は動かなかった。
「……先入観を捨てきれませんでした」
少女が剣など持つわけがない。
臣籍降下したとはいえ、元王族に刃を向けるわけがない。
第一王子の婚約者の名を貶められたことに、彼女が怒りを放つわけがない。
考えと思い込みは、ジェラルドの咄嗟の動きを鈍らせた。
幼少の時から、『目に映っただけでは見たことにはならない。頭で処理し、脳が認識してはじめて行動にうつせる。だからこそ体の反射神経だけでなく、いついかなる時も思い込みを捨て、脳に制限させられることなく動け』と教えられ育ったジェラルドだったが、結局教えは予測の範囲内でしか感知できず、彼の予測範囲内には、巧みに刃を振るう貴族の女性は入っていなかった。
「知識は学ぼうという意欲があれば得られるものよ。けれど、幼い時から培ってきた思い込みや先入観は簡単に変えられるものではないわ。貴方たちも同じよ」
少女が、黒星たち一人一人の瞳を見つめながら言う。
「家格が低ければ自分より劣るという勘違い、女相手ならば力で勝てるという思い込みは捨てなさい。頭の中にある価値観と固定観念だけに囚われていては、場に応じた適切な対処はできないわ。そんなことでクリスティーナお姉様に危険が及ぶことにでもなったら――――」
その次は発せられなかった。
だが、その瞳は口で語らずとも言外に示していた。
(殺される……)
エーヴェルトを含む黒星全員がゴクリと息を呑む。
この数日間、自分たちはこの少女にプライドを叩きのめされている。けれど、これはたぶんまだ序の口だ。もし本当にこちらのミスでクリスティーナ公爵令嬢になにかあれば、命が危ない。
「あぁ、でも勘違いなさらないでね、私は別に紫星として命令しているわけではないわ。貴方たちが、黒星として、紳士として学べる機会を投げ捨てるほどに己の矜持が大切なら、どうぞ大切になさって。個人の取捨選択を命令するほど、私は鬼畜ではないもの」
そういって、少女が笑む。
何も知らない者からすれば、それは無邪気なほほ笑みに映っただろうが、エーヴェルトには高みから嗤笑する悪魔にしか見えない。
「どの口が……」
「ん? なにか仰ったかしら?」
わざとらしく小首を傾げる様に、エーヴェルトが叫ぶ。
「大体っ、紳士紳士と。こちらの紳士性を問いますがねっ、ソフィー嬢の淑女性はどうなのですか!?」
「私の淑女はもう売り切れましたわ。品切れを起こさせたのは貴方たちのせいなのだから、仕方がない事でしょう?」
「ほぼ大半はレミエル様の責任だと思いますけど!?」
自分たちの行いが黒星として不適切だったことは認めても、レミエルの一件まで含まれては納得できない。
「あら、黒星は王族の方々をお守り云々とあれほど仰っていたじゃない。ならば、あの男を野放しにしていた責任も貴方たちの責任でしょう?」
「あの方はもう臣籍降下されていらっしゃいます!」
「だからなによ。昨日は、第二王位継承者だから私に口を慎めと言ったでしょう。都合の悪い時だけ除外して逃げるなんて紳士らしさ皆無の男ね」
「貴女の前で、紳士でいる方が無理でしょう! 野生の熊を目の前に、武器を持たずに丸腰でいるようなものじゃないですか!」
「なッ…女の子を熊に例えるとはどういう了見よ!?」
突如、ソフィーとエーヴェルトとの言い合いが子供の口喧嘩のようなものへと変わった。
「貴女は自分のことを“女の子”といいますが、“女の子”が人の佩剣を盗みますか!?」
「抜いただけだわ、盗んでないわよ!」
「人に刃を突きつけておいて、よく抜いただけとか言えますね!」
「どれだけ貴方が隙だらけか教えてあげたのでしょう。感謝してほしいくらいだわ!」
先ほどのやり取りとは打って変わって、ギャイギャイと言い合う二人を、ジェラルドは黙って見つめていた。
(エーヴェルトのやつ、こんな性格だったか?)
あれだけ始終言い負かされても、好戦的な態度を改めないエーヴェルトに首をひねる。
エーヴェルトは、出会った時からどこか女性を駒のように見ている節があったが、表向きは彼女たちが好む態度で接していた。
――――女と口論するなんて無駄無駄。喜怒哀楽の感情論でしか回らない口を理論で負かしても、どうせ納得しないからな。
女の言葉は何を言っても響かない。口論もできない。なぜなら同じ知性がないから。
「女の子に一本取られるような不甲斐ない男ではないというなら、こんなカリキュラムくらい完遂できるでしょう! いっておくけれど、私ならばこの程度文句言わずにやり通すわよ!」
「ああ、やりますよ! やりますとも! やればいいんでしょう! 出来ないとは言ってませんから!」
そう言っていた男が、いま繰り広げているのはなんだ?
とりあえず知性のある言い合いではないだろう。
紫星の少女は少女で、いつもどこか最後でアンバランスさをみせる。
あれだけエーヴェルトと黒星の生徒たちを完膚なきまでに叩き潰して、なぜ最後の最後でこんな子供じみた会話になるのか。
女性には幾つもの顔があるというが、これは女性だからなのか。それともソフィー・リニエールという少女だからなのか。どちらにしても、この二面性にはいまだに慣れない。
(そろそろ止めるか……)
ソフィーから、話が終わるまでは口出し無用を命じられていたジェラルドだったが、立場上そろそろ止めに入るべきだろう。もっとも、効力があるかは分からないが、と一歩を踏み出したところで、反対側の扉が開いた。
当たり前のように入室してきたのは、いま二人が擦り付け合っていた第二王位継承者、レミエルだった。
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