拝啓 天馬 まずは第一関門ですⅣ
その後三人が退出し、ルカも廊下で待機の形になると、話は本題へと入りその内容は当然ながら濃いものとなった。
「候補地は、ソフィー様がご提案されたオルテ川付近で確定いたしました」
ロレンツオが王都の地図を広げ指差す場所は、確かにソフィーが最初に提案した場所だった。
「許可証も下りましたので、どうぞこちらを」
ネルトから洋紙を受け取り、中身を見ると、貴族院と王の承認までその印を確認できた。これで、公的に動いていいというお墨付きを貰ったことになる。
「この度の事業、銀星一同総力をあげて尽力致しますので、どうぞ宜しくお願いいたします」
畏まった言葉のあとに、人の良い顔でネルトが笑う。どこか人をホッとさせる笑みだ。
「ソフィー様、一つご提案があるのですが」
ネルトの笑顔についホッとしていると、ロレンツオの口から思いがけない申し出がでた。
「下水を撹拌する装置なのですが、こちらのシンプレックス式を採用させていただけないでしょうか?」
「シンプレックス式を…ですか?」
前世の技術である活性汚泥法は、汚水に含まれる有機物を、酸素を必要とする好気性微生物に食べさせて吸収・分解する方法だ。この方法では、微生物に十分な酸素を供給することによって、微生物の動きを活性化させることが大切となるため、酸素を送り込む装置は重要だ。
技術の進んでいた前世では、散気式という細かな気泡によって酸素を供給していた。散気式の溶解効率は高いが、今世では設備費と動力があまりにもかかりすぎて無理だと断念した。その為、浄化能率は下がるが、撹拌式と呼ばれる方法をとるつもりだった。
ソフィーが最初に提案したのは、パドル式と呼ばれる水車で槽内の下水をかきまわす方式だ。こちらも動力はかかるが、直線状のパイプに二つの水車を取り付け、片方は勾配を利用した水力によって、もう一つの撹拌する水車を動かす方法を提案していた。
ロレンツオが言うシンプレックス式は、水平に取り付けられた回転羽根で下水を水面上四方に跳ね飛ばし、飛散と波動によって空気を通す方法だ。
「なぜシンプレックス式を?」
「シンプレックス式が、一番電力消費が少ないからです」
「え…」
シンプレックス式にしてもパドル式にしても難点があるため、前世では廃止された方法だ。だが、幾つかの利点もあった。シンプレックス式の一つの利点は電力消費が少なく、機械類が水上にあるため点検などが容易な点だ。
「ロレンツオ様は、電力でこれを動かすことをお考えなのですか?」
確かに医科学研究所では発電機の試作品があると聞いていたが、それを使えるなど考えもしていなかった。ソフィーが考えていたのはあくまで電力を必要としない方法のみだ。
「私は金星のように、金が世界のすべてだと語るつもりは一切ありません。ですが、新しい試みに革新的技術が多くあればあるだけ、人の心は動かされるものだと考えております。そして人の心が動けば、それに付随して金も動く――――そう思われませんか?」
サラリと、ロレンツオの藍錆色の髪が肩から落ちる。瞳と唇がかたどる笑みは、まさに魔性の笑みだった。
先ほどの氷点下の笑みを思い出し、ソフィーは内心ひぃいと悲鳴をあげた。
動揺のあまり笑みがつりそうだ。
“女王の薔薇”のご令嬢たちが見たら赤面しそうな美しい笑みも、今のソフィーにとっては底の知れぬ悪魔の微笑のように感じられ、冷や汗が流れる。
今まで美形といわれる男性を数多くみては、爆ぜればいいのにと心の中で文句を言っていたソフィーだが、ロレンツオのそれは質が違う。ロレンツオの笑みは、甘い毒薬のようだ。
彼の美貌は、もしかしたらクリスティーナに一番近いかもしれないが、男女でここまで違うかというほどに、ロレンツオの笑みには本能的に尻込みしてしまうものがあった。
「新しい技術に、特に金星はいち早く飛びつきます。それが画期的であり、金を生む可能性を多分に秘めていればなおのことです。こちらが頼まなくても暇な貴族たちは、いち早く情報を広めてくれるでしょう」
(……つまりロレンツオ様は、金星やそれを聞きつけた貴族からの寄付金を狙っていらっしゃるということね)
金星よりも強かな男だと思うが、一理ある。
この先の建設、設備資金、未来の技術開発のための費用は莫大だ。ソフィーが提案した処理施設も、前世の技術に比べれば当然その浄化システムは低い。先のことを考えれば、使える資金は銅貨一枚でも多いにこしたことはない。
何より、王立の施設は名のある貴族がこぞって見学にくる。その時に電気設備を説明すれば、新技術に貴族たちは食いつくだろう。下水処理施設という、生活に直結していても、いまいち重要性が分かりにくい地味なものより、目に見えてその力を示すことのできる電力の方が、確かに人の心は簡単に動く。
「分かりました。では、シンプレックス式に案を練り直します」
「ありがとうございます。こちらも提案致しましたからには、技術的な不具合が発生せぬよう尽力致します」
またロレンツオがニコリと笑う。
ソフィーも笑みを返しながら、お願いだから無表情でいてくれと真剣に願った。
(おかしいわね、ロレンツオ様はあまり表情を表に出さない人だと聞いていたのに……。やっぱり、噂は噂なのね)
ゲッソリしながら心の中でそう思っていると、無害そうな外見とは裏腹に、中々に口の悪いネルトがため息交じりにロレンツオの発言を謝罪してきた。
「ソフィー様のお父様が、金星でいらっしゃることへの配慮が欠けた発言で申し訳ありません。うちの所長は性格がねじ曲がっているものですから。どうかご気分を害されないでください」
「い、いえ…そのようなことは…」
ネルトの発言も、返答に困るから止めてほしい。
年は確かにネルトの方が上だが、上下関係、爵位、星の数も圧倒的に優位なロレンツオに対して、サラッと毒舌を吐くネルトは、もしかしたらこの医科学研究所で一番怖い存在なのではないだろうか。
彼の笑顔でホッとしているのは危険な気がしてきた。
ロレンツオも少しは気分を害せばいいものを、まったくそんなそぶりも見せず、「学生時代が悪かったのでしょうかね」と言いながらソフィーを見つめ、
「貴女のような方がいらっしゃれば、つまらぬ日々も光り輝いたのでしょう。残念です」
そう、毒を垂れ流すように囁いた。
「わ、わたくしごとき、とてもそんな…」
今日一日で何度となく拝見した笑顔に、ソフィーはなんとも言えない恐怖心を感じ、思わず縋るようにネルトを見るが、ネルトはこちらのことなどもう眼中にないとばかりにソフィーが手渡した書類を熟読していた。
(この二人……)
金星の生徒から言わせると、『銀星は基本人の話を聞かないし、人の気持ちを読まない』と言っていたが、あながち間違いではないかもしれない。
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