拝啓 天馬 まずは第一関門ですⅡ
そんな中、唯一気楽そうな態度のマルクスが、片手をあげ飄々とした態度で口を開いた。
「なぁ、お嬢さん。今さらなんだけどさ、なんで俺呼ばれたの? 難しい話とか、理解できる気がまったくしないンだけど」
横に座っていたラルスとファースが、ギョッとした顔でマルクスを見る。
緊張のあまり顔の青いラルスとファースからすれば、銀星の最高峰が在席しているこの場で、いつも通りのフランクな発言ができることが驚きだった。
「いいのよ。分からないと思ったら、その都度聞いて」
生徒を交えての話し合いは半時ほどを予定している。
難しい話をするつもりはなく、あくまでなぜ自分が紫星を賜り、何を成すために“王の剣”にきたのかを、三人には理解して欲しかったのだ。
“王の剣”には、ソフィーが何の事業を行うために学院に来たのか知らされていない生徒が大半だ。しかし花の祭典で提出した書類は機密扱いされているため、まだ学生の彼らに深く説明するわけにはいかなかった。けれど、まったく説明せずに自分の命を聞いて欲しいというつもりもない。だからこそ、ここで少し大まかな説明をしたかったのだ。
「ロレンツオ様、ネルト様には申し訳ございませんが、私は殿下より次世代の彼らの成長も促すよう命じられております。お二人の貴重なお時間を取らせてしまい恐縮ですが、どうかご理解いただきお付き合い下さいませ」
「こちらはお気になさらずに」
涼やかな笑みで返されるが、銀縁メガネの奥に見える灰色の瞳は『ならばそれ込みで楽しませてもらおう』という色に見えた。
やはり金獅子と一緒で油断禁物な相手だと、ソフィーは笑顔が引きつらないよう唇に力をいれる。
より気合いを入れるために席を立つと、一同に対して淑女の礼を執る。同時に、明朗な声で同席の礼を述べ、本題に入った。
「この度、わたくしは殿下より命を受け、その実現のために身に余る名誉を賜りました。殿下より与えられた命はただ一つ。この国の飲み水を、誰もが安全に飲めるようにすることです」
事業の内容までは知らされていなかったラルスたち三人が、一瞬ポカンとした顔で「水…?」と呟く。
「ええ、水です。――水は人の生活に不可欠なもの。水がなければ、人は生きてはいけません。一日水を飲まないだけで、体内の水分は失われ、脱水症状を起こします。そうなれば、体は発熱を生じ、酷いと死に至ります。人間にとって、何よりも大事なものが水なのです」
水がなければ人は生きてはいけない。
自分の言葉に、一瞬だけ前世の幼かった自分が瞼に浮かぶ。
あの山に、水が流れていなかったら、自分はあの時死んでいたかもしれない。もしもあの時死んでいたならば、例え今と同じく前世の記憶をもって生まれたとしても、自分はきっとこの場には立っていなかっただろう。そう思うと、少しだけ笑ってしまいそうになる。
命の終わりが、あそこでなくてよかった。
つくづくそう思いながら、ソフィーは説明を続けた。
「我が国では、オルテ川の水をポンプで揚水し給水しております。けれど、その水質は決して良いものではありません。現状の対策として、下水溝を通して汚水を下流に流しておりますが、これは一時しのぎであって下水処理をしているとは到底言えぬものです。下水をキレイにして河川に放流しなければ、汚水に含まれる有機物が水利障害や悪臭に繋がり、伝染病を引き起こしてしまいます。スラム街も含め、すべての下水を集め、それを処理施設に送り浄化させることが…」
説明が止まったのは、マルクスがもうすでに意味が分からないという顔をしていたからだ。内容が分からないというよりは、ソフィーの説明に小難しさを感じているようだった。
ソフィーの横にいたロレンツオが、ニコリと笑う。
「ソフィー様、貴女は紫星です。こちらに気を遣われる必要はありません。学生である彼らの基準でお話下さい」
大人らしい社交辞令だと思ったが、ソフィーは礼を言って、その言葉に甘えることにした。
「つまり、私は汚れた水を汚れたまま川に流すのではなく、キレイにして川に流したいのよ!」
いっきに砕けた説明といつも通りの口調に、緊張していたラルスとファースがやっと息ができたとばかりの顔でホッとする。その横で、マルクスが首を傾げた。
「キレイにするっていうのが、必要なわけか?」
「そうよ。汚れた水を流し続ければ川は汚れていく一方でしょう。汚れた川はそのうち、川に生息している魚や水生昆虫類を殺し、悪臭を放つようになるわ。そんな川の水を飲めば、誰だって病気になってしまうでしょう。私はそれをくい止めたいの。それに、病気が蔓延するような状況になれば、最初に被害を受けるのは地位の低いものからよ」
最後の言葉に、マルクスの唇が歪む。
彼は両親を病気で亡くしていた。医療の発達していないこの世界では、一度重篤な病気になれば完治するのは困難だ。
「私はこの国を、そんな未来にしたくないの。だから、汚れた水をキレイにして、川に流す。川からくみ上げた水をキレイにして飲む。このシステムを構築したいのよ」
「くみ上げた水もなんかするわけ? なら、川に流す時にキレイにしなくてもいいンじゃねぇの? 飲むときにキレイにすればさ」
「ダメよ。どちらも行うことに意味があるの。片方だけでは十分とは言えないし、汚れた水を飲み水に浄化するのは大変なのよ」
「でも、今はどっちもしてないンだろう?」
マルクスからすれば、するべき必要性があるならば、なぜ今までどちらもしていなかったのか不思議なのだろう。 ソフィーは少し考え「そうね、地形は確かに他国の都市と比べたらいい方だと思うわ」と答えた。
「地形?」
「王都に流れるオルテ川は、山から流れてくる水でしょう。平野部と違って、山から発する川は高低差で流れが早いのよ。流れの早い川は、とどまって動かない川よりも水が淀みにくいの。けど、オーランド王国の人口が年々増えていることを考慮すれば、自然の恩恵だけではもう限界なのよ。今も雨がまったく降らない時期は、川の淀みがひどいでしょう?」
「あー…確かに」
マルクスは乾季の汚れた川の淀みを思い出し、眉を顰めた。
「人口の増加、産業の発展に伴って川はどんどん汚れていくわ。だからこそ、いまここでくい止めなければ被害は拡大していく一方よ。それに、これは今日明日ですぐにできることではないわ。大規模な工事と施設の整備が必要なことだから」
そこまで説明すると、今まで黙ってソフィーの言葉を聞いていたネルトが口を開いた。
「あの、ソフィー様。話の腰を折って申し訳ありませんが…」
「はい?」
「ソフィー様の計画書の記載は、確か下水処理についてのみで、上水処理については計画に組み込まれておりませんでしたよね?」
ネルトが事前に聞かされていたのは、あくまで下水だけに関するものだった。
上水処理についてはなにも聞かされていないと、上司であるロレンツオを見るが、その上司は特段驚いていなかった。その様子から、事前に聞いていたことが窺い知れ、ネルトの顔色が悪くなる。
「ち、ちょっと待って下さい。国費と建設費、経営費の兼ね合いがあるので、上水、下水をいっぺんにというわけには……。上水処理の予算については、見積もりされていらっしゃいますか?」
「先ほどお二人にお渡しした書類に。これはあくまで目安程度の年間費用ですが」
これは二人だけに渡したもので、学生の三人には渡していない。こちらの内容は、後でラルスたちが退席した後に話し合う予定だったものだ。
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