ソフィー・リニエールというご令嬢~お姉様たちの夜~


 ラナが自室に入るのを見て、セリーヌは自室のドアを開けようとした手を止めた。


 チラリと、友人クリスティーナの部屋の方を見る。クリスティーナはすでに自室に入っていた。


 しばし考えて、セリーヌはドアにかけていた手を離し、クリスティーナの部屋へ歩き出す。軽くノックしたが、返事は無かった。それでも自分であることを告げ、扉を開いた。


 そこには、扉の前で無表情に立っている友人がいた。


 顔色は無く、唇を噛みしめ、柳眉を顰め。そんな顔をしていても、やはりこの友人は恐ろしいほどに美しかった。


「あら、クリスティーナ・ヴェリーンともあろう者が、なんて顔をしているの」


 美しさに変わりは無くても、今までに見たことのない友人の表情に、ついいつもの憎まれ口をたたく。


 いつもサラリとかわす友人が、今日はまるで吐き出すように声を上げた。


「あの子は…! 馬鹿だわッ、あんな…あんな危険なことをしてッ!」


 感情が抑えきれないといった風に叫ぶクリスティーナに、セリーヌは呆れて言う。


「本人に、直接言いなさいよ」

「わたくしは“姉”なのよ! “姉”が“妹”の前で、そんな無様な姿をさらすなどできるはずがないでしょう!」


(その矜持は、公爵令嬢クリスティーナ・ヴェリーンとしてではなく、ソフィー・リニエールの“姉”としてのものなのね……)


 いつもこの友人は、第一王子の婚約者である公爵令嬢として完璧な優雅さを持っていた。指先一つの所作さえも美しい。たとえ無礼な振る舞いを受けても、まるで作られたお人形のように、顔色を変えることなく上品さを失わない。


 彼女は、まさにこの国の王妃となるべく生まれ、育てられた完璧なご令嬢だった。


 そのクリスティーナが、感情を露わに怒っていた。“妹”の行為に。


 セリーヌだって、まさかソフィーがあんな危険な行為をするとは夢にも思っていなかった。


 異国の動物をよく知っていることにも驚いたが、その動物がリリナを乗せて走り去り、茫然としている中誰よりも素早い動きで追った姿にも驚愕した。


 まるで騎士のように馬を走らせ、追う姿はどうみても普通のご令嬢ではなかった。リリナの取り巻きなど、状況も忘れボーと見とれていた者も多かった。


 馬を愛するクリスティーナのために、彼女の婚約者が贈った馬が、あの黒馬と白馬だった。二頭の馬はとても美しく、そして駿馬として優秀だった。


 だが、乗るのは所詮ご令嬢だ。二頭の馬の本当の速さなど、貰った本人もセリーヌも知らなかった。


「あの馬は、あんなに速く走れたのね…」


 思わず驚愕が漏れた。


 クリスティーナも、走り去るソフィーを唖然と見ていた。


 すぐに我に返り、疾風のように駆けていく黒馬を、クリスティーナと共に追った。だが、馬になれている二人でも、なかなかソフィーには追いつけなかった。


 やっと姿を捉えたと思ったら、次の瞬間、ソフィーは黒馬からその身を異国の動物に移した。正直、息が止まった。


 悲鳴さえ出ないほどの驚きに、目はこれ以上ないほどに開き、鼓動が激しく打つ。思わずクリスティーナを見れば、いつも姿勢正しい友人の体が一瞬不自然な動きをした。


 眩暈を起こしたのだと気づいたセリーヌは、強く友人の名を呼んだ。声に反応し、すぐに姿勢を正したが、セリーヌは気が気でない。馬上でクリスティーナの姿勢が崩れるなど、今まで無かったことだ。


「クリスティーナ、一度降りなさい!」


 叫んだが、クリスティーナは馬を走らせた。


「クリスティーナ!」


 何度呼んでも、馬を止めずにソフィーのもとへと走る友人を制止するように、馬を近づけた。


「クリスティーナ!」


 走りにくさで白馬が止まると、やっとクリスティーナがこちらを見た。


「セリーヌ、邪魔よ!」

「少し落ち着きなさい、落馬する気!」

「わたくしがそんな無様な真似をするわけが……ッ!!」


 言葉は、声の無い悲鳴に消えた。


 クリスティーナの真っ青な顔に、慌ててソフィーたちの方を見る。異国の動物に、二人の姿は無く、その動物は崖を悠々と登っていった。


「落ちたの!?」


 叫べば、クリスティーナの肩が震え、ガクッと体が落ちる。とっさにその身を掴み、友人が落馬しないように支えた。


 セリーヌも力があるわけではないが、友人が落ちないよう必死で支えた。荒い呼吸を繰り返す音が聞こえる。クリスティーナが必死に正気を保とうとしているのだ。


「ッ…!」


 ここまで狼狽えるクリスティーナを、セリーヌは初めて見た。クリスティーナは大きく深呼吸をすると、支えていた手からゆっくりと離れた。


「……大丈夫よ、セリーヌ。ごめんなさい」


 次の瞬間には、もう完璧な公爵令嬢クリスティーナ・ヴェリーンの顔だった。


 いつもの友人の顔に少し安堵し、ソフィーたちのもとへ急いだ。


 二人は無事だったが、リリナはよほど恐ろしかったのだろう、ソフィーから離れず泣いていた。助かったと分かっても、クリスティーナが目の前にいても、泣きながらソフィーの服を握りしめていた。最後には、ソフィーにその手を引かれながら歩いて保健室へと向かった。


 ソフィーはと言えば、ケロリとしていて、傷さえ負っていなかった。


 あんな危険な行為をしておいて、恐ろしさを感じなかったのか、クリスティーナの声掛けにもお茶会と同じトーンで返していた。


 正直、ゾッとした。


 いつもお茶会で見る笑顔と同じ顔を、なぜ今の今でできるのか。


 目の前の可愛らしい少女が、見たことのない生き物に思え、セリーヌは息を呑んだ。そして同時に思う。


 なるほど、クリスティーナ・ヴェリーンに相応しい“妹”だ、と。


 どんな場面でも自分を忘れない。ご令嬢らしからぬ行動さえ、まるでそよ風に遊ばれたドレスを押さえただけだというように優雅に笑えば、こちらの見間違えかと思ってしまうほどの力があった。


 人の心を動かす力が、ソフィーにもあるのだ。それはクリスティーナのもつ力とは少し違う。けれど、形は違えど、同じようなものをソフィーも持っているのだ。


(公爵令嬢クリスティーナ・ヴェリーンの心まで動かしたのだもの、敵わないわ…)


 苦し気に、美しい顔を歪める友人を抱きしめ、セリーヌは悟る。


 クリスティーナがどこでソフィーを知り、どうして姉妹の契りを交わしたのか。今もって分からない。クリスティーナが何を考えているのか、セリーヌには分からなかった。


 二人でいたあの時間、馬上でいったい何を話していたのか。


 異国の動物を見るために、馬を降りて歩いてきた二人を、セリーヌはじっと見ていた。だから、クリスティーナの瞳が、とても眩しいものを見るようにソフィーを見ていたのを見逃さなかった。


 この美しい友人が何をしたいのか、分からない。


 けれど、一つだけ分かったことがある。


 ソフィー・リニエールというご令嬢は、クリスティーナ・ヴェリーンにとって“大切な妹”なのだ。いつの間にか、そうなってしまったのだ。


(当の本人もきっと気づかないうちに……)


 長い付き合いの友人を、まるで取られてしまったような気持ちに、セリーヌは苦笑した。


 それでも、今この時は、感情を露わにする友人をなだめることができる。その特権は、ソフィーが“妹”である以上、“友人”である自分の、自分だけのものだ。


 “妹”に、醜態は晒せないと言う友人を、セリーヌは優しく抱きしめた。


 月の光が、柔らかく窓を照らす。

 その夜は、大きな月が空へ浮かぶ静かな夜だった。

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