拝啓 天馬 私は愚者でしたわⅣ


 だが、その沈黙はラナの歓喜の声で破られた。


「まぁ! なんて可愛らしい動物なのかしら!」


 少し走った所で、従者らしき者たちが待っていた。


 ゲイルから降り、ラナたちの所へ急ぐ。


 そこには荷馬車から運ばれた一匹の動物がいた。


「…ヌーガ?」


 まさか、こんな所で異国の動物を目にするとは思わなかった。


 ヌーガは、大きな瞳をもった鹿のような生き物だ。大きな角があり体格も鹿に似ているが、違うのはその脚力だった。大柄の男を一人乗せることができるヌーガは異国では馬の代わりだ。しかし、馬より荒っぽい一面があるため、そう簡単に乗りこなせる動物ではない。


「異国から父に献上されたもので、わたくしも可愛らしいと思いまして、お父様にお願いして、こちらへ運んでいただきましたの!」


 どうやら待っていた従者は、リリナの家の者だったようだ。オーランド王国は周辺の国々と比べても栄えている。故に、その貴族のご機嫌取りのために、何かを献上することは珍しいことではない。その一つがこのヌーガだったのだろう。


「異国では馬の代わりだそうです。ぜひクリスティーナお姉様にも乗っていただきたくて! わたくしもこの子が来た日に乗せていただいたのですが、馬より背が低いので乗りやすくて。それに足も強いそうなのです!」


 正直、なぜヌーガなのか、ソフィーには理解できない献上品だった。


 献上した日は、乗り方を指導した者がいただろうが、指導者がまったくいない状態でヌーガはホイホイと乗れる生き物ではない。


 飼いにくい生き物ではないが、乗りやすい生き物でもないのだ。


「馬と同じ感じで乗ってよいのかしら?」

「はい、大丈夫です!」


 クリスティーナの疑問に、リリナが元気よく答える。


(待って、クリスティーナお姉様が乗るの!?)


 先ほどのやり取りの後で、クリスティーナに進言するのは少しだけ躊躇われたが、そう言ってはいられなかった、


「待ってください! ヌーガは、見た目は可愛らしく温厚に見えますが、突然暴れ出す時がございます」


 異国でも、ヌーガを操ることができるものは毎日暮らしを共にしている遊牧民くらいだ。草原地区で生活している女性と、貴族の女性とでは、そもそももっている身体能力が違いすぎる。


「私は、たとえ不敬と罰せられても、クリスティーナお姉様をおとめいたします!」


 強く言えば、クリスティーナは少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの微笑を浮かべた。


「ソフィーがそこまで言うのなら、わたくしは遠慮いたしましょう」


 クリスティーナの拒否に、リリナの顔色が変わる。目じりを険しく吊り上げて、ソフィーに食ってかかった。


「ヌーガは急に暴れ出したりなんてしません! わたくしが乗った時だって、ちゃんと言うことをききましたもの!」


 それはたぶん、長旅で疲れていただけだ。ヌーガの多く生息する地域と、このオーランド王国ではかなりの距離がある。疲れて怒る元気も無かったのだろう。


「わたくしがちゃんと証明してみせますわ!」


 宣言するなり、リリナがヌーガの背に飛び乗った。


「リリナ様!」


 ヌーガは馬とは違う。そんな勢いよく乗ってはいけない。ゆっくりと、ヌーガの機嫌を損なわないよう乗らなければならない生き物なのだ。


「え…キャアッ!」


 案の定、ヌーガは驚きその身を暴走させた。強い脚力で土を蹴ると、驚くソフィーたちをしり目に、リリナを乗せて走り去ってしまった。


「あれ…大丈夫なの?」


 ラナが元々大きな橙色の瞳をより大きく開きながら、唖然と指さす。


 大丈夫なわけが無かった。完全に、ヌーガは暴走している。


「追いかけます!」

「ソフィー!?」


 クリスティーナが制止するかのように声を上げたが、止まること無くゲイルにまたがり、走らせた。


 ヌーガは足が速い。急がねば、馬でも間に合わないかもしれない。


「ゲイル! 名の通りの走りを、私に見せてちょうだい!」


 ソフィーの言葉を理解したように、ゲイルが風を切るようにそのスピードを上げた。見事な襲歩に、今まで乗ってきた馬とは違う、天性の才能を感じるほどの速さを見せた。


(これなら間に合う! でも急がないと、この辺は崖がある…)


 ヌーガは崖さえ軽々と上る生き物なのだ。崖に上がれば、馬では到底追いつけない。崖を駆け上がる際、リリナが恐怖で手綱を離し、落下すれば無事ではすまないだろう。


 ゲイルの走りのおかげで、その姿はすぐに捉えることができたが、ここからが問題だった。


「リリナ様、こちらへ!」


 手を差し出しても、リリナはヌーガにしがみ付くのがやっとの状態だった。


 震える声で、『無理よぉぉお』と声を上げるのが精いっぱいだ。


 手さえ差し出してくれれば、なんとか引っ張り上げることもできるだろうが、今は並走している状態だ。その状態で片手を離す行為は、リリナにとっては恐怖でしかないのだろう。


(マズイ、この先はもう崖!)


 距離はあと数十メートル。ヌーガに崖を駆け上られたら、もう手段が無くなる。


(リリナ様を、これ以上怖がらせたくはなかったけど、仕方ないわ!)


 覚悟を決め、ソフィーは叫んだ。


「リリナ様、私がそちらへ飛び乗ります! 手綱はしっかり握り、動かないでください!」

「え?」


 返事は待たずに、ゲイルをギリギリまでヌーガに接近させ、飛び乗る。背に与えられる突然の衝撃が嫌いなヌーガが、一段と怒っているのが伝わってきたが、こちらも構ってはいられなかった。


「ぇえええええ!?」


 ソフィーが後ろに飛び乗った驚きに、リリナの唇から、何とも言えない驚愕と唖然さが入り混じった悲鳴が上がった。


 リリナから手綱を奪い、操ろうとするが怒りを露わにしているヌーガには効かなかった。

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