【二〇一七年七月二十日】
書類上の〝母親〟で、血のつながりはない。
だったら、どうして俺の彼女ではないのだろう。
彼女になってほしい。
母親でもあってほしい。
真尋さんは、俺への微妙な距離感や不要な遠慮さえ除けば『理想の母親』であった。ここでの理想は、一般論的な理想だ。俺の理想ではなくて。料理上手で家事が得意で要領がよく近所付き合いも――あとからコミュニティに入ってきたにもかかわらず周囲に溶け込むのが異様にうまく、悪い噂は俺の耳には届かなかった――順風満帆そのもの。美人で可愛くて、お茶目なところもあって、若くて、非の打ち所がない。表向きには。
どうして俺の父親に引っかかってしまったのかは謎だった。聞いたところで惚気られたらつまらないから聞いていない。なんでだろう。理解に苦しむ。
父親を羨ましいと思った。嫉妬で胸が詰まる。あんなアラフィフおじさんよりも、俺のほうが人間的にも優れているっていうのに。だって、一般的に考えたらそうじゃん。
高校中退して、バイト人間になって、そのままオーナーにこき使われているような雇われ店長の父親と、この時はまだそうではないけれど、誰もが一度は耳にしたことのあるような大学に現役で合格するような俺とでは、俺のほうが価値あるでしょ。俺の胸の内にはこの父親から真尋さんを奪い取ってしまいたい気持ちが去来していた。この両腕を限界まで広げても抱えきれないほどたくさんの愛を、俺だけに捧げてほしい! 俺は間違ってはいない。俺は悪くない。
あんなやつよりも、俺を愛してほしい……!
その娘であるひいちゃんもまた、母親譲りのコミュニケーション力によって転園先の幼稚園で人気者となっている。迎えにいくと必ず一人は男の子がついてきた。護衛かな。行くたびに別の男の子になっているので訊いてみると「おにいちゃんに会いたいっていうから」と答えられた。子どもからは慕われやすい性質。小学生ぐらいになると怖がられる。
誰もが俺を『頭がいい』『賢い』と褒め立てて、成績表も優秀そのもの。期待と評価が俺を俺にしてくれていた。でも、――そいつらが望んだままに天才の俺は天才であったのに、ふとしたタイミングで俺から離れていく。不思議な現象は多発した。特に女性だ。女さんは俺に変に期待して「好き」だのなんだの言ってくれるのに、その期待に応えてやってもダメらしい。めんどくさい。
真尋さんはそうではないと思う。
だって〝母親〟だから。
俺を見捨てないはずだ。
俺を産んだ〝母親〟は、どこかへ行ってしまったから。
今度は手放しちゃいけない。
今は手を伸ばせるのだから、伸ばして、握っていなくちゃいけない。
どこにも逃げないでほしい。ひいちゃんに向けるような無償の愛情を俺にも向けなければならないから。貪り尽くしてもいいはず。
全部欲しい。欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい……。
だから俺は計画を立てた。実行日は俺の誕生日に合わせようと思って、手順を考える。俺は生まれ直したかったのだと思う。この人生が不幸であるのなら、そこから少しでもマシな方向へと抜け出すために。
幸せが歩いてこないのなら、自分から歩き出さなくては。
保健室に行って相談する。薬が欲しい。ここんところ不安で、眠れないのだと打ち明ける。不安がないわけではないけれど、眠れてはいるから半分は真実ではない。保健室なのは、医者に行ったら父親にバレるからだ。ついでに、家族には言わないでほしいと頭を下げた。余計な心配をかけたくないから、と嘘をつく。こうしておかないと、学校の先生って生き物はすぐに保護者へと連絡してしまう。
小学校の頃に担任の教師に相談したら、諸悪の根源の父親を同席させての三者面談をさせられた。バカなのか。俺を苦しめているのは父親で、父親の前ではいい子をしていないとあとで何をされるかわからないってのに。本当のことなどひとつも喋れていない。悪化するだけだった。
今は違う。今の俺にはおかあさんがいる。
おかあさんが俺を守ってくれる。
俺だって、ひいちゃんと同じく、この人の息子なのだから。
俺が「おかあさん」と呼んでもおかしくない。俺が正しい。血は繋がっていなくとも、書類がそう言っているのだからそう。年齢がそう違わなくたって、この人と俺とは母親と息子の関係性だから。社会的にそう。
なのに、この人は否定してくる。俺を受け入れてくれない。そちらから来たっていうのに。俺と父親しかいないこの家に上がり込んできたのはそちらのほうだ。どんな事情があってこんなことになっているのかは興味ない。
ただ、俺のことを子どもだと認めてはくれない、この人がおかしい。俺は間違っていない。悪いのは真尋さんのほう。俺は悪くない。
この人はおかしい。なんでかわからない。父親なんかより俺のほうが優秀だ。みんなが、俺は優秀だって、そう言ってくれる。どうしてこんな父親と再婚しようと思ったのだろう。
みんなは俺を褒めてくれる。俺は成績も良くて、人当たりも良くて、いい子。この人に見る目がないのだと思う。今から乗り換えてほしい。物事を始めるのに遅いも早いもないから。
この人の娘であるひいちゃんは俺を「おにいちゃん」と呼んで慕ってくれる。嬉しい。この人よりもひいちゃんのほうが、人というものを正しく評価してくれている。
ひいちゃんは別の部屋で寝かしつけた。明日の朝まで寝てくれるだろう。
父親の酒にはもらってきた薬を入れた。もう二度と起きてほしくない。
目覚めなければいい。
こんなやつ、死んでしまえばいい。ど底辺のくせに。家では威張り散らしやがって。俺には偉そうにしてくる。俺が頼んで育ててもらったわけじゃない。たまたまこいつが父親だっただけの話。
今の俺にはおかあさんがいる。おかあさんがいれば、俺は幸せになれるはず。ひいちゃんと三人の家族になりたい。
「ねえ、おかあさん」
何度目かな。数えるのもやんなっちゃった。俺は、真尋さんに「おかあさん」と呼びかける。真尋さんはその唇を青ざめさせて「ちょっと、どうしたの?」と俺の父親の身体を揺すっていた。酒を一口飲んだだけでこう、パタリと仰向けに倒れたから、そりゃあ驚くよな。ゆさゆさと揺らすよりは早く水飲ませたほうがいいんじゃん?
医学部じゃあないけどそんぐらいはわかる。無理に水を飲ませると窒息してくれるのかな。それはそれでいいや。じゃぶじゃぶ飲ませよう。バケツいっぱいぶん持ってくりゃあいい?
まあ、こんなことなんて人生の中で滅多に起こらないイベントだから混乱しているのはわかるよ。
「無視すんじゃねェよ」
真尋さんの肩を掴む。ひいちゃんのママで、父親にとっての再婚相手、父親の息子である俺から見て、俺のママでもあるのに、俺のおかあさんにはなってくれない。そんな存在を、無理矢理こちらに向かせる。小動物みたいなくりっとしたまあるい目は、ひいちゃんのものと同じ形をしていた。ひいちゃんはおかあさんそっくりだから、順調に成長したらこうなってくれるのだろう。楽しみだな。
おにいちゃんの俺がひいちゃんを悪い男から守ってあげるからね。
「何?」
まあるい目がきゅっと細くなる。俺が何をしたかも知らないくせに、全部お見通しみたいな視線を向けてくるじゃん。知らないでしょ。俺は気付かれないように準備してきた。分かっているのなら、旦那様が倒れる前に酒を飲ませないようにする。もし分かっていて止めなかったんなら、俺と二人きりになりたかったってことじゃん。
それならお望み通り、息子としてではなくて、男として答えてやらなきゃいけないな。そういうもん。この人にとって俺は息子ではないのだから、誰かに咎められはしないさ。
「んぐっ!?」
血色の悪い唇に吸い付くと「ぃやっ!」足が出てきた。いるいる。こういう女さん。嫌いだよ。蹴ってくる奴。何でもかんでも暴力で解決しようとするのは知的生物の解決法ではないのだよな。
「何すッ!」
キャアキャア騒ぎ出しそうだから口を右手で掴んで「ひいちゃんが起きちゃうだろ」と添えてやる。ぐっすり眠っているのに起こすのは可哀想じゃん。
大好きなおにいちゃんが自分の母親からいじめられているのを見せたいってなら止めねェけど。今さっきの蹴りなんて衝撃的映像でしょ。五歳児には刺激が強すぎるって。
びっくりして泣かれるのは嫌だよ。家庭内暴力なら父親で間に合っている。なのに、再婚相手からも殴る蹴るされんの、俺?
「俺が息子なのが嫌だって言うのなら、旦那にしてくんない? そいつより絶対にいいと思うんだけど」
そいつ、と大の字にいびきかいて寝てる父親をあごで指す。まったくどうしてこいつの、こいつのどこがいいのかわかんねェよ。俺のほうがマシじゃん。雇われ店長だよ? オーナーの匙加減ひとつで仕事を失うような立場のやつより、俺のほうがいいじゃん。未来があるし。いい大学に入って、いいところに就職して、父親よりも高給取りになるからさ。……口塞いだままでは答えられねェじゃん。離してやるか。
「わけわかんない……あんた、自分が何してんのかわかってんの?」
小刻みに震えている。可哀想に。誰がこんなに怯えさせているんだろう。
俺か。
「ははは」
どうやったら好きになってもらえるのかわからない。息子だとしたら、おかあさんから愛してもらえるのは当然の権利であるはずなのに。この人はおかあさんのはずなのに、俺を愛してはくれない。こうやって拒絶する。
それならば、他の女さんにするみたいにするしかないじゃん。俺と付き合ってくれた、一時的に彼女になってくれたような人と、してきたようなことをすれば、きっとこの人も俺を好きになってくれる。
父親の再婚相手ではなくて、俺の彼女になってくれる。きっとそう。そうだ。
なんで気付かなかったのかな。
「いやっ! やめてっ!」
胴体に跨がっただけなのに激しく抵抗されている。
なんで?
なんでなんで?
彼氏と彼女ならこういうことしてもおかしくないでしょ。
「うるさい」
「いっ!」
「うるさい、うるさい、うるさい……!」
何度も床に後頭部を打ち付ける。静かにしてもらわないとひいちゃんが起きちゃうからさ。ひいちゃんはこんなところ見たくないだろうし。
「やだ……やめて……」
紫がかった髪の生えた後頭部を庇うように、弱々しい声で鳴いている。めっちゃ痛そう。あーあ、可哀想に。顔はケガさせてないからいいでしょ。
「ははは、ははは」
俺だって、殴りたくて殴っているわけではないよ。ほんとほんと。殴りつけたくないし。嘘ではないよ。真尋さんがうるさくしなければ、ひいちゃんは起きない。理解して、黙ってほしい。暴力に頼るなんてアイツと変わらねェし。
「どうすればやめてくれる……?」
甘ったるい声を出してくれる。こんな声も出してくれるんだな。俺を認めてくれたみたいで嬉しいよ。
近所の人からはたまに言われていたのだけれど。俺は息子だって認めてもらえていなかったから「あら、かわいいおかあさんね」って言われても知らないふりをしてたな。悪いことをしてしまった。
「俺に何されると思ってんの?」
何度もしてきたでしょ。ひいちゃんがその証拠じゃん。
ひいちゃんは前の旦那さんと『そういうこと』をした結果として生まれてきたってことぐらい、俺にはわかるよ。ちゃんと勉強してきているから。コウノトリが運んでくるとか、手を握ったらとか、そんなのはファンタジーだし。その前にも何度もしてるでしょ。今更その経験回数が一回ぐらい増えたところで誤差だよ誤差。
「……私と、していいと思ってんの?」
ここに来てそう言う? 言うのか。そうか。おもしれェなァ!
この状況を生み出したのが誰のせいなのかわかっていない? わかっていないからそんなこと言えるんでしょ。びっくりしちゃう。わかっていてくれよ。今、このタイミングで、俺のこと息子だって言い出すのか。へぇ。
都合がよすぎるんじゃないかな。
じゃあさ。
逆にだよ。
「おかあさんだって言うのなら、おっぱいを飲ませてもらえるよね?」
何も出ないってのはわかっている。出るようになってくれないかな。俺と『そういうこと』をしていれば、そのうち出るようになってくれるかもしれない。いいな、それ。していこう。あいつとするよりはいいじゃん。
風呂上がりにすぐタオルで覆われて見えなくなる、目の前に曝け出されたものの中身をどれだけ吸い上げようとしても一向に出てはこないけど、ひいちゃんも小さい頃はこうしてたんだろう。ひいちゃんと間接キスしているって考えるとゾクゾクしてくる。直接ひいちゃんとキスするわけにはいかないし。ひいちゃんとキスしようだなんて思ったことないよ。ひいちゃんは俺の妹なのだから。妹に手を出す兄がいるかよ。
「……ね、やめない……?」
ようやくおかあさんのおっぱいにありつけたのだからこれまでできなかったぶんを吸い尽くしたい。俺がどれだけこの時を待ち望んでいたかなんて、知らねェだろうなァ。
俺はずっと、ずっと、おかあさんに愛してほしかったよ。父親から俺を守ってほしかった。それなのにおかあさんはいない。俺を産んでどっか行ったきり帰ってこない。他の家にはいるのに。俺にはいない。どうして? 俺が醜いから? 気持ち悪いから? 俺が悪いの? なんで? 俺は悪くないでしょ。俺は何もしていないのに。
ただそこにいただけ。
なんでなんでなんでなんで?
俺を捨てないで。
産みたくて産んだのではないのか。
お前がこの俺を置いていったせいで俺が父親からいじめられた。
おかあさんが憎い。
名前も顔も声も知らないけれど。
俺の苦しみは、全部お前のせいだ。
けれど、いいんだ。
新しいおかあさんが来てくれたから。
ようやく父親がいてよかったって思え――よくはないし、これまでの行為を許せるわけではないが。
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