> 継母曰く、
参宮家に来たあの日から、何者かに監視されているような気がする。
歩いている時も、眠っている時も、考え事をしている時も、料理を作っている時も、あのクズに抱かれている時も、四六時中。わたしの頭のてっぺん、斜め上のほうから、わたしを眺めている視線があった。わたしがそちらを見上げても、そこには空だったり、天井があったりする。不思議な視線を生み出すような存在は、わたしの目には見えない。目には見えなくとも、確かにそこにいる。
そこにいる何者かを、わたしは『神さま』だと思うことにした。頑張っている人間は報われるべきだ。わたしは『神さま』から「頑張って」とエールを送られている。何とか言ってくれたらもっと頑張れるけれど、わたしには『神さま』の言葉は聞こえない。実は聞こえているのに理解できていないだけかもしれない。見守られていると安心する。いつか助けてもらえるのではないかと、望みを抱けるから。
「ママ、どうしたの?」
「おなか、いたい?」
この子なりにわたしを気遣ってくれているのだろう。一二三は優しい子。そう。一二三は
怖い存在は、見える形で、登校していた。
「……大丈夫」
下腹部がジワジワと痛い。ここんところ、ずっとそう。時折おなかをさすってしまう。それが一二三には『おなかが痛い時のポーズ』に見えるのだろう。思い当たる原因は、アレしかなくて、その原因さえ取り除けたらこの痛みからは解放される。原因がわかっているからこそ、小さな一二三には言えない。
「……」
優しい一二三は俯いて、わたしに手を引かれる。子どもなりに、ママのことを考えてくれているのだろう。もうじき保育園に着く。
「ほいくえん、いきたくない」
不意に立ち止まり、わたしの手を離した。
視線はアスファルトに向けたまま、その場にしゃがみ込む。
「ちょっと、一二三ちゃん」
わたしは一二三を無理矢理立たせようと同じようにしゃがみ込んで、うめきそうになる。一二三の見ている前で弱っているところを見せたらさらに心配させてしまう。唇を噛み締めて痛みをこらえた。
「今日はお絵描きがんばるって、おにいちゃんに話してたじゃない」
おにいちゃん。一二三の義理の兄。おにいちゃんを引き合いに出せば、一二三は「……うん」と立ち上がってくれる。……わたしは一二三を諭すような表情を作れていただろうか。引き攣ってはいないだろうか。
「ママは、おいしゃさんいく?」
わたしの『おなかいたい』はお医者さんに行ってどうにかなるもの、でもないと思う。軽減はするだろう。原因を取り除かなければ、根本的な解決にはならない。それに、お医者さんになんと話せばいいか。包み隠さず、再婚相手の連れ子から性暴力を受けています、と言えたら……。お医者さんはなんて返してくるだろう。その反応が怖い。なんてはしたない女なのでしょう。そんな誹りを受ける未来が見えて、わたしの足はすくむ。
薬は、――薬は、飲まないといけない。飲まなくちゃ。今日も忘れずに飲まないと。
「おいしゃさんにおなかみてもらって、おなかいたいいたいのおくすり、もらう?」
大丈夫と答えたけれど、一二三はまだ気にしていたらしい。ここは「一二三ちゃんが保育園に行っている間に、お医者さんに行ってくるね」と答えて安心させよう。実際には病院へは行かなくてもだ。
一二三はついていこうとまではしない。一二三の中で、病院は恐ろしい場所となっている。恐ろしい場所ではあるけれども、診てもらって、いただいた薬を飲んだら治ったから、わたしにおいしゃさんを勧めているのだろう。
前に一度、小児科にかかった時にギャン泣きした。本人が風邪っぽかったから体調も機嫌も悪かったのはあるが、基本的に、一二三は男の人が苦手なのだ。初対面の男性の小児科医に、心を開くはずもない。
苦手にしてしまったのはわたしが原因でもある。わたしがもっと頑張っていれば。わたしは了くんと別れなくてもよかった。頑張りが足りない。八束から参宮に苗字を変えなくてもよかった。一二三の父親で、バイクが大好きな了くん。一二三が生まれてからは整備士としてより頑張ってくれていたのだから、わたしも頑張って了くんを支えてあげなくちゃいけなかった。了くんが変わってしまって、わたしを叩くようになったのは、わたしが頑張れなかったから。その様子を見てしまった一二三が、男の人を怖がるようになるのは当然の流れで、つまりわたしが悪い。
一二三があの男に懐いているのは、奇跡のような出来事で。あの男は一二三にとって特別な、おにいちゃんだから、他の男の人とは違うのだろう。あの男の本性を前もって知り得ていたら、これほど一二三がべったりくっつく前に引き離していた。もう遅い。真実を明かさずに、一二三とあの男の距離を離そうとすれば一二三は泣いて嫌がるに違いない。
「ママもおいしゃさんこわいよね。ひいちゃんはおえかきがんばるから、ママもがんばって」
ママは、お医者さんは怖くない。
「うん。ありがとう」
「じゃあ、いきます」
口から出かかった「行かないで」の言葉を飲み込む。
言ったら一二三を困らせてしまう。
そう、ママが頑張ればいい。
一二三が家にいてくれたら、あの男はわたしに手を出してこない。ことを起こすのは一二三が寝静まってからだ。高校より保育園のほうが早く終わるから、よかった。逆だったらと思うと寒気がする。
あの男は一二三のおにいちゃんであろうとしている。一二三がわたしのそばにいる時にわたしを犯そうとはしない。保育園が休みの時には、わたしにではなく一二三に付きまとう。この間は一二三を動物園に連れて行って、帰ってきた。一二三は喜んでいたけれども、わたしは内心、一二三に危害を加えるのではなかろうかとヒヤヒヤして、影から監視していた。あの男の一二三への愛情は、妹に向けるためのものであって、いわゆる肉欲の類ではないようだ。――それがいつまで続くかを、警戒している。わたしはまだ、頑張れる。あの男の異常性がわたしではなく、一二三に向かっていくのを、絶対に許してはならない。無論、わたしに向かうのもよろしくはない。
隼人さんは忙しくて、家にいる時間は少ない。隼人さんにとっては、寝に帰るだけの家。隼人さんが家にいる時も、あの男は大人しくしている。最初の最初だけ、隼人さんの酒に薬を盛りやがった。
その後隼人さんがなかなか目を覚まさなかったもんだから、二度としなくなったけれど。
あの男は実の父親である隼人さんのことが怖いのだ。幼少期から暴力を振るわれ、一時期は自死を考えるほどに追い詰められた。けれども、頼れる親戚も相談できる大人もいなくて、父親の存在がなくなったら自分の生活が立ち行かなくなるから、従いながら生きてきたのだと、身の上を語ってくれた。オレンジ色の瞳を涙で濡らしながら。確かに同情すべき、つらい人生を送っているのだと思う。
しかし、だからといって、一二三と隼人さんが寝静まってから、
最初に出会った時に、背筋がゾワりとした。
その悪い予感は当たらなくてもいいのに、当たってしまった。
あの夜の、一回の行為の後から、あの男は許されたと思い込んでいる。
わたしになら、その歪んだ感情を押し付けてもいいと。
今日もまた、これから、家に帰らないといけない。なんだかんだ言っても、
実家。
この道を曲がれば、実家に続いている。実家に戻るつもりはない。頭ではわかっていても、身体がそちらに吸い寄せられることがある。とっくに親子の縁は切れている。ママだって、こんなわたしと会いたくはないだろう。ママにとっての四方谷真尋はすでにいない。今いるわたしは参宮真尋だから、ママと会うことは、もうない。四方谷家に、わたしが戻ってきていい場所はない。一二三を妊娠して、了くんのところに転がり込んだ日、ママからの着信は止まらなかった。メールも、メッセージも、全部無視して、ここまで頑張ってきた。今更実家に戻れるわけがない。
なのに、なんだろう。
時折すんごく、心細くなる。
わたしは可愛い一二三のために、頑張らなきゃいけないのに、そう思えば思うほど、泣いてしまいそうになるのだ。
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