第3話
四方谷さん家の一人娘が帰ってきた。この話は吉報として町内を駆け巡り、誰も彼もが彼女の無事に安堵した。何も知らねぇ奴らからしてみれば、真尋さんは『一時の気の迷いで出奔した娘』であり『不慮の事故により旦那と娘を亡くした未亡人』でもある。元旦那の動機は不明だけれど、本人がお亡くなりになっているもんだから不明のままだろう。基本的に、死人は喋らない。
実家にいる頃から悪さばかりしていたならばさもありなのだけれど、昔から『気立てがいい人』として通っていたらしい。四方谷さん家の可愛い娘。顔を合わせれば会釈し、道に迷っている様子を見かければ声をかけて案内し、腰の曲がった老人の荷物を運ぶ手伝いをする――近所で評判の美少女。
そんなマヒロさんが形だけでも誠意を込めてお辞儀すれば、直前まで怪訝な目を向けていようとも、皆一様に態度が軟化するのだった。まあ、裏では陰口叩いてんのかもしれねぇけど。
まだ定年を迎えていない祖父は、祖母のスマホからのメッセージを受け取って、普段よりも早く帰宅してきた。
土曜だろうと関係なく朝は八時夜は十七時までが定時で、十九時ぐらいに帰ってくるのだけれど、退勤して即タクシーを捕まえて飛んで帰ってきた。
大事な子ども。
仕事を切り上げてでも帰りたかったと嘆いていた。前々から単身赴任が決まってしまっていたから、女どもの目の前で「会社に連絡して撤回してもらう」と電話をかけようとする。愛する娘が戻ってきたってのに、自分が離れなくてはならないなんてそんな殺生な話はない、と。他の人間に代われないかと。
そしたらマヒロさんが「ずっとここにいるぞ!」と祖父のスマホを奪い取り、また祖父母を泣かせた。
家族って、本来こういうもんなのだろうな。全体的に身長の低い四方谷家の三人家族のやりとりに、俺は入っていけなかった。血もつながっていないし。どのタイミングで入っていけばいいかわからず、そっとその場を離れる。
感動のシーンのはずなのに、なぜだか吐き気が込み上げてきた。思い出したくもない記憶を上から押さえつけようとして、胸も苦しくなる。俺は悪くない。何も悪くないのに。
「パパ、ママ、好き!」
不意の二文字が心に突き刺さる。この「好き」という二文字を異性から投げかけられたとき、その字面通りに俺のことを好いてくれているのだろうと受け取っていいのだろうけれど、対する俺はどのような反応を返せばいいのかと困ってしまう。
心が性欲に押し負けて、過去に何度か女性と付き合ったことはあった。最初の彼女は中一の時にできた中三の先輩。求められるままに相手へ「好き」という言葉を返すことはあっても、本心から「好き」と思ったことはない。どういう気持ちが「好き」なのか、わからない。なんだろうな「好き」って。マヒロさんがいま口にした、俺の祖父母――真尋さんから見たら『パパ、ママ』の関係性――に対しての「好き」と、異性から俺に対しての「好き」とは違うし。
ひいちゃんだけだ。ひいちゃんだけが俺を『おにいちゃん』として見てくれた。ひいちゃんにしかできない。ひいちゃんだけが家族だった。だから、もう俺には家族はいない。いないのだ。俺の『妹』はひいちゃんだけで、両親を亡くしてしまったから次の『妹』は存在し得ない。祖父母の対応は、俺への同情に近くて、喪失感の埋め合わせにはならない。いわゆる『家族愛』というものは、正真正銘の家族を失った俺には一生かかっても理解できない概念になってしまった。
他人の『普通』の『ありきたりな人生』は、うらやましいぐらいに輝いていてまぶしくてキラキラしていて、どんなに手を伸ばしても届かない。
誰かに付き従うだけの人生ではない。家族がほしい。誰かに命ぜられるままに動く人生ではない。当たり前の幸せがほしい。燃え上がるような厚い情愛ではなく、包み込むような暖かい愛情がほしい。それなのに、誰にも理解してもらえない。恋人がほしいのではない。距離感がわからない。不必要に近づいて、傷つけてしまって、恋人気取りの相手は離れていく。
俺が悪いのか。そうか。悪いんだな。悪いなら悪いと言ってくれ。反省している顔をしてやるからさァ。よぉく見ておけよ。どうしてまた俺は他人に振り回されているのだろう、と気付いてしまって、涙が流れる。勉強ばかりができていても、人間としては未完成らしい。なんらかの障害と診断されたほうが、まだ、諦めがつく。誰かがそうだと言ってほしい。適切な言葉を当てはめて、俺を安心させてほしい。
きっと、俺はこのまま生きていくのだろう。
* * *
「ママ! 今日はカボチャの煮物を教えてくださるのでしたわね!」
かれこれ一ヶ月経過した。四月の中頃から本格的に始まった大学生活にも慣れてきて、いくつかサークルにも誘われている。入らないけれど。マヒロさんは自分の顔ぐらいの大きなカボチャを冷蔵庫の野菜室から取り出して、瞳を爛々と輝かせながら祖母に話しかけている。祖父が単身赴任期間を終えて四方谷家に戻ってくるまでに〝ママの味〟をマスターするのが目標だと意気込んでいた。
というか、マヒロさんは『人類を滅ぼす』と息巻いていたってのにどういう風の吹き回しかと訊けば「地球上に我とタクミの二人きりになるのだから、タクミには健康に気遣って長生きしてもらわねばならない」とさも当然のように答えられた。マヒロさんがどういう手段を用いて人類を滅ぼすのか教えてもらっていないけれど、人間が食べられるものを残してくれる形になるのな。
「タクミくんも手伝う?」
所在無げにリビングから様子を窺っていたら祖母に気付かれてしまった。マヒロさんが家に上がり込んでから、以前よりも話しかけてくるようになった気がする。おそらくは元来の性格が出ているのだろう。書類上は俺の祖母だから祖母としていて、呼びかける時には「おばあさん」と呼んでいるけれど、外見の年齢からすると祖母というより母親と偽ったほうが話が通じやすい。まだ五十代後半だし。
とはいえ、俺までもが祖母を「ママ」とは呼べないな。いくらなんでもそりゃないよ。
「ケガでもしたら大変だから、出来上がりを待つのだぞ」
包丁の切っ先を俺に向けながら、ふんふんと鼻を鳴らすマヒロさん。真尋さんは料理上手だったし、今から学ぼうとしているカボチャの煮物もたびたび食卓に上がっていたけれど、マヒロさんは「基礎から学び直したいぞ!」と祖母にベッタリだ。祖母も嬉しそうだからいいか。
父親が真尋さんと再婚する前の参宮家では、父親の仕事場であるところのコンビニで廃棄になった弁当ばかり食べていた。たまに学校で弁当が必要になる時には、弁当箱にコンビニの惣菜を詰め直されたものを持っていく。俺の記憶にある限りで、手料理が出てきたことはなかった。レンジで温めるってのが『調理』に含まれるんなら、まあ、ほぼ毎日だったけれど。
「手伝いたいところだけど、これから人に会う約束があって」
「ふむ」
「あら、お友達?」
お友達なら『人に会う』とは言わないだろ。
俺は今から神佑大学への入学の決め手となった弐瓶柚二教授に会ってくる。学内で遭遇しないなと思っていたら、別のキャンパスに研究室があるらしい。授業も三年生以降じゃないと受けられないらしいし。
ちなみに学生の間ではそのお名前よりも〝デカ乳〟だとか〝エロボディ〟だとかの身体的特徴のほうが有名で、それ目当てで履修を決める輩も多いらしい。ひどい話だよ。俺が言えたことではないけれど。
彼女に愛の告白をした人数は両手では足りないぐらいで、ことごとく破れ去っているのだとか。
まあ、調べられる範囲で過去を掘り返しまくった俺から言わせてもらえば「断られるに決まってんだろ」と笑い飛ばしたい。下心ありありで近づいてくるようなアホはその近づいてくる段階でバレバレで、お見通しなのだろうな。
「我もついていくぞ!」
マヒロさんは握っていた包丁をまな板の上に置いて、エプロンを取り外し始めた。カボチャの煮物を教わるのじゃあなかったの。祖母も困惑している。
「そのお友達とやら、よもや女ではあるまいな?」
だからお友達ではないって。女ってのは間違っていないけれど。はっきりと訂正しておいたほうがいいか。
「弐瓶教授に会ってくる。前に話したことあるだろ」
「タイムマシンの研究をしているのだったな? ならば、なおさら会わねばなるまいて」
なんでそうなるのか。祖母は祖母で「あら、タイムマシン?」とそちらに興味を示している。
「どこに母親同伴で教授に会うやつがいるんだよ……」
「いいではないか。息子が将来お世話になる教授に、手土産を持ってご挨拶せねば」
「将来ねぇ」
そのまま大学院に進学して、弐瓶教授の下で研究するのも悪くはないかもしれない。俺にも戻りたい過去はあるし。
あの事故が起こる前に行って、ひいちゃんを救いたい。
「カボチャの煮物レッスンはまた後日として、ついていってもいいだろうか?」
すっかり行く気満々のマヒロさんが、ようやく祖母にお伺いを立てる。ここで引き留めたらどんだけカボチャの煮物を教えたいんだよって感じだけど、勢いに押し負けた祖母は「そうね。カボチャは逃げないものね」と納得してくれた。
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