第2話

 最悪の気分だった。けれども表には出していない、と思う。ポーカーフェイスであるように努めながら、頭痛を堪えていた。祖母にバラされたらどうなることか。四方谷家から追い出されるだけでは済まされない。そうなったら死んだほうがマシだよ。


 義理の母親の顔と肉体を持つ女は、土曜の真っ昼間、この場所がローマの大劇場であるかのように、堂々と宣言する。不忍池のほとりだけれど。


「我はタクミの義理の母親であるが、タクミが望むのなら、まさしく恋人のように、マヒロと呼ぶがいい。マヒロでも構わないぞ!」


 真尋さんの頭がおかしくなって帰ってきた。

 こんな電波女さんだった記憶はない。


 なんてったって真尋さんはひいちゃんを亡くしているのだ。しかもその事故の原因は真尋さんの元旦那で、ひいちゃんの父親である八束了が対向車線からぶつかろうとしてきたからだ。俺は、俺の父親を失ったぐらいで済んでいるのだけれど、真尋さん視点で考えてみりゃあ『愛していた男』と『その男との間に授かった可愛い娘』をほぼ同時に失っているのだからバグっても仕方ない。


 俺と真尋さんとの関係は、二人だけの秘密であって、あの真尋さんが真尋さんに酷似したこの女に漏らしたとは考えにくい。双子だったって話も聞かねぇし。真尋さんは四方谷家の大事な一人娘のはずだしさ。


「我の目的はただひとつ。この太陽系第三惑星の地球を我が星に従属させることだぞ!」

「なるほど?」


 真尋さんってこんな人だったっけか。いや、まあ、俺が知らなかっただけかもしれねぇけどさ。目的ってなんだよ?


 我が星も何も、真尋さんは人間じゃん。


 艶やかな紫色がかったロングヘア、太めの眉に、くるんとカールしたまつ毛、黒目がちの瞳、ほんのりと赤らんだ頬に、ぷっくりとした唇、色白の肌、誰もが惹きつけられる魅力を詰め込んだ低身長な美人さんに、壮大でミステリアスな要素が加わった。ミステリアスっていうと聞こえがいいな。少しイっちゃってる感じもする。やりすぎはよくないよ。


「タクミよ。我と手を組み、人類を滅ぼさないか?」


 マヒロさんはずいっと一歩前に踏み出して、俺に綺麗な右手を差し出し、そんな蠱惑的なセリフを吐き出した。続けて「新世界のアダムとイヴになろう」と高らかに謳い上げる。


 人類を滅ぼす。滅ぼした上で、新世界の『最初の二人』になる。俺と、この、マヒロさんの、二人。義理だから血は繋がっていないし、何ら問題はないな。倫理的に、だとか、道徳上、だとか、そういったことは度外視すればいい。何故なら俺は、真尋さんのことを愛しているから。たぶんこれが愛。確証はないけれど。真尋さんに愛してもらえるのなら。


「いいな、それ」


 俺にはその場で断る選択肢もあったけれど、俺は俺自身の意志でマヒロさんに賛同した。この選択に他人の意志は介在しない。俺の選択だ。俺は俺の人生を選び取る。後悔はしない。


 ようやく俺にもやりたいことが見つかったってことでね。


「ただいま、ママ」


 マヒロさんは迷うことなく四方谷家にたどり着いた。真尋さんにとっての実家だし。この辺一帯は庭みたいなもんだろ。頭がおかしくなろうが覚えているものらしい。鍵を開けたのは俺だ。実家の鍵を大事に持ち歩いてはいなかった。


 ママ、と呼びかけられた祖母はリビングでテレビを見ていた。政府が先端技術の開発に対して特別に予算を組んで、その成果物を実用レベルにまで高めるための研究を後押しする取り組みに関し、ならば現在国内ではどのような先端技術が存在していて、それらに国税を費やすことへメリットがあるのか否か、なんやかんやと議論が交わされているようだ。専門家って暇なのか?


 俺はつけっぱなしのテレビに気を取られてしまったけれど、祖母は「ただいま」を聞きつけてソファーから立ち上がって、廊下を小走りして、マヒロさんを見てフリーズしていた。口を半開きにして、目が点になっている。あれだけ安否を気にかけていた存在が帰ってきてくれたのだからもっと喜んでくれよ。


「心配かけてごめんなさい」


 マヒロさんはぺこりと頭を下げた。マヒロさんとしては『行方不明になっていた真尋さんが実家に戻ってきた』ていでいたいのだろう。俺は聞いてもいないのに祖母が勝手に話してくれた真尋さん情報によれば、真尋さんは元旦那の八束了と駆け落ちのように家を出て行ってしまっていて、式を挙げていないらしい。ひいちゃんが生まれたことも知らなかったっていうのだから驚く。そんなだから八束と離婚していたことも、俺の父親と再婚していたことも、今回の事故によって初めて知ったのだとか。


 とすると、俺を引き取ってくれたのは、なんでだろう。俺なんて全然関係ないじゃん。娘が知らんうちに再婚していた相手の連れ子だしさ。天涯孤独の身の上な俺を、可哀想だからって引き受けてくれたんかな。そうでもなければ、最愛の娘と血が繋がっているわけでもない俺をこの家に置かないだろ。ひいちゃんならまだわかるよ。ひいちゃんは真尋さんの娘だし。それに、俺はこれから大学の学費もかかるってのにさ。学費だけではないよ。日々の生活費だって、俺の分、払わなくてもいいのに余計に使わなきゃならないわけじゃん。今後、俺に介護でもしてもらいたいのかな。やれって言われたらやるけれど。恩はあるから墓守ぐらいはするよ。葬式の手配もやらせてしまったし。俺にできるわけないだろ。


「ほんとね」

 

 状況を飲み込んでから、祖母は涙ぐんでいた。顔を床に向けたままのマヒロさんを、そっと抱きしめる。


「おかえり、わたしたちの真尋」


 俺には「真尋が帰ってきたら『どのツラ下げて帰ってきてんのよ』なんて、怒鳴ってしまいそうで……」などとこぼしていたけれども、実際はそうはならなかった。よかった。これこそ親子愛ってやつだよな。祖母の腕に包まれたマヒロさんの目尻にも光るものがあった。



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