第19話 欲しいもの

「千夜ちゃんの、心が欲しい」


 予想していたものとは違った表現だったので、千夜は思わず聞き返していた。


「心?」


 ミルクチョコレート色の瞳が微かに細められて、すぐに戻った。少しだけ腰を前傾にすると、ギーの顔は千夜へと近づく。


「心。俺は君の心が欲しい。欲しくて欲しくて、たまらないんだ」


 熱の籠る瞳だった。ギーが更に距離を詰めてきたので、千夜の頬を彼の吐息がくすぐっていった。


「銀くん、それって……」


 意図するところは分かる気がする。迫るギーから後退したい気持ちと、踏みとどまりた気持ちが、千夜の中で拮抗していた。


「つまり……つまりその、好きなんだ。千夜ちゃんが好きだ。俺は君が好き……そして、応えて欲しいと思ってる」

「銀くん」

「俺に君の心をちょうだい」


 苦しそうだった。

今朝の電車の中で見た時よりもずっと、ギーの顔は苦悶に歪んでいる。それなのに瞳から光は失われていない。それどころか、その輝きは強さを増して千夜のことを射抜いていた。


「私は……」


――身を任せてしまいたい


 そうしたら、きっと何もかも楽なのだ。きっとそれが正解で、目の前の彼の顔から苦しみを取り除き、笑顔に変えることができる。そしてきっと、千夜自身もそれを望んでいる。けれど。


「私……」


 心の浅い場所に、まだ新しい記憶があった。


『お前と別れて、よかったよ』

『ついていけないよなぁ』

『めっちゃ冷淡なの』

『薄情で冷たいやつ』


 徐々に時間を遡ってたどり着いた過去の声は、半年前のものだった。


『お前のこと、もう好きじゃない』


――やっぱりダメだ!


 ぎゅっと握りしめた千夜の拳に、一瞬だけギーの視線が向いた。


「私、銀くんのこと……」


――いつか悲しくなるくらいなら、今のうちに済ませたい


「銀くんのこと、そんなふうに見たことなかった」


 顔を逸したかったけれど、しなかった。せめて今この瞬間だけは、逃げずに向き合いたかった。


――嘘をついた。私はきっと、嘘をついた


 言葉を発してから一秒にも満たない刹那、千夜の思考は高速回転していた。相反する感情がせめぎ合い、次第に後悔と罪悪感でいっぱいになり、口から吐き出しそうになる。


――失望させた。銀くんはきっと……どうすればいいの。私は受け入れても拒絶しても、どっちにしろ失望させてしまうんだ


「それでもいいよ」


 優しい声音が、千夜の耳をふわりと撫でた。

焦点を合わせた千夜の目が映したのは、ゆったりと微笑む、いつものギーの笑顔だった。


「これからでもいい。俺、頑張るからさ」

「銀くん?」


 ギーの笑顔は、宥めるように千夜の頭から暗い感情を押し流していった。


「これから千夜ちゃんが、俺に心をあげてもいいって思えるくらいに頑張る。かっこいいところたくさん見せるし、千夜ちゃんが一番幸せに思える場所を、俺が作るよ」


 失望とは程遠いその表情に、千夜は驚きの余り言葉を失っていた。


「あ、その前に大切なことを確認するの忘れてた」


 はっとした顔の後、ギーは再び腰を屈めて、千夜の目線と自分の目線とをぴったり合わせた。


「俺のこと、少なくとも好ましいとは思ってる?……嫌いじゃない……よね?」

「まさか。嫌いだなんて」

「店のチョコ抜きでも?」

「うん……ふふっ。なんでそこでチョコ? 当たり前だよ」


 つい笑ってしまったが、その裏で千夜は不思議で仕方なかった。さっきまでの黒い感情の嵐は、すっかり鳴りを潜めている。


「よかった。希望はあるみたい」


 心からの安堵の声だった。ギーは屈めていた身体を起こすと、千夜に向かって手を伸ばした。


「心をくれるかどうかの返事は、保留ってことでいい? 俺、本気だからね。本気で頑張るよ……とりあえず、今日はもう帰ろう」


 差し出された手に応えようか逡巡する千夜に、痺れを切らしたギーが笑う。彼の手の中に、千夜の手はすっかり収まってしまっていた。

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