第20話 イトウさん
千夜を自宅前まで送り届け、店に戻る。会計台の奥のドアを開けてから、シャッターを閉め忘れたと気づいたが、そのままにした。
一秒でも早く、次に進みたかった。
店の中には甘い残り香が漂っている。今日は一つも商品を並べていないが、壁にも天井にも、すっかり香りはしみ付いてしまったようだ。
「こちらギー。応答せよ。聞こえてる? サポートセンター」
暗闇の中、ぼんやりとギーの姿を照らすのは、彼がポケットから取り出した小さな球体だった。
「どうした」
「……俺、まだ試験パスしてない?」
「残念なことです」
「そっか」
雑音が混ざっても、聞こえてくる音声は明瞭だ。球体の向こうの人物は、ギーの口調に意外な様子で「おや」と呟いている。
「何だよ、ちょっと嬉しそうじゃないか?」
説明を促す声に、ギーは少し間を置いてから答えた。
「ほっとしてるんだ。まだ終わってない。時間がある」
「何言ってるんだ」
「千夜ちゃんが俺に惚れたら、そこで試験は終了。そうだろ?」
毎日チョコレートを並べていた、陳列台に目を走らせる。今は一粒もそこにはなかったが、千夜が来店する前にこの場所を整えることが、いつしか心躍る時間に変わっていた。
「俺がこの星に留まる理由はなくなる」
「そりゃお前、今は受験生の立場で滞在許可下りてるんだからな」
エスリ人が地球に滞在する場合、その目的と理由によって、滞在期間が定められている。許可された期間が終われば、速やかにエスリへ帰らなければいけないのだ。しかし、ギーのように地球での試験が理由であれば、特に滞在期間は定められない。本人希望のリタイアか試験にパスできた時に、滞在期間終了となるのだ。
「ねえ、イトウさん」
「な、な、なんだよ」
ギーに名前を呼ばれた担当職員が動揺したようだった。仕方ない。初めてギーに本名を呼ばれたのだ。彼の担当についてから、いつも呼ばれる時は「担当職員さん」だった。
人の名前をまともに覚える気もないのか。舐めた野郎だと思った。
「教えてほしいことがあるんだ。俺は全く詳しくない分野だから……それと、うちにも繋げて欲しい」
「は? 何だよ突然……」
口調から、ふざけているわけではないと分かる。イトウはギーの意図が分からず戸惑うばかりだ。彼が家族との通信を希望したのは、地球に降り立ってから初めてのことだった。
「大切なことなんだ。お願いします」
「ギー……」
日没はとっくに過ぎている。
暗い店の中でその日日付が変わってからも、地球とエスリ間の通信は、途絶えること無く続けられた。
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