第4話 君は特別
毎朝一緒に通学していたものだから、顔を合わせたら気まずい。
千夜はいつもの通学路から、コースを変えて歩いていた。元彼と鉢合わせしないように。
「ここ通るの、久しぶりだな」
小学生の頃は、近所の色々な路地に入り込んだものだ。いつしか、そんな気まぐれな寄り道もしなくなった。
「懐かしいな。ここにあった駄菓子屋さん、なくなっちゃったんだ」
歩調がゆるくなり、千夜はシャッターが降りている店を一つ一つ確認していった。まだ七時代なので、どの店も開店前のようだ。
人気のない朝の路地は、寂れているが、どこか心地よかった。
「あそこ、もう開いてる」
ある店先で足は止まる。唯一シャッターが開いていたのだ。縦長の看板が出入り口の前に出ていて、そこに書かれている文字を読み、千夜の心は弾み始めた。
「『チョコレート専門店
なんて心躍る看板だろうか。千夜は一歩踏み出して、店のガラス戸を覗き込んだ。
やはり開店しているようだ。ドアノブにぶら下がった札には『OPEN』の四文字。照明が店内を明るく照らしていた。
「こんなお店、知らなかった」
千夜の手は、迷わずにドアノブに伸びた。
カラン カラン
ドアが開いたことを知らせる鈴の音が、店内に鳴り響く。同時に、千夜の全身は甘い香りに包み込まれた。
――チョコの香り!
八畳ほどの狭い店内は、四方に陳列台が並んでいて、ドアに最も近い一角に小さな会計台があった。
店員の姿がなかったが、千夜の意識は既に陳列台の上にあった。埃よけの透明なカバーの下に、色とりどりのチョコレートが並んでいる。
「わあ……」
――絵画みたい。なんてきれいなの……
規則正しく整列したチョコレートは、どれも千夜の親指の第一関節ほどの大きさだった。決して大粒ではないのに、繊細な模様が施してある。
「いらっしゃいませ」
かけられた言葉に、ビックリして肩が跳ね上がった。いつの間にか小さなレジの前に、紺色のエプロン姿の男が立っていた。店員だろう。見れば会計場の奥にドアが見える。そこから出てきたようだった。
「あ、おはようございます」
間抜けな声でとりあえず口にした朝の挨拶に、店員はクスリと笑ったようだった。若い男だった。
「ようこそ
「え? そうなんですか」
「ええ。今朝開店したばかりなんです」
「通りで知らないと思った」
近所にこんなに魅力的な専門店があったら、きっとすぐに嗅ぎつけていたはずなのだ。千夜のチョコレート好きは、身近な人間であれば誰でも知っている。
「初めてのお客様には、当店のチョコレート詰め合わせを進呈させて頂きます」
「えっ‼」
「どうぞ」
笑顔の店員が差し出してきたのは、三十センチ四方の平箱だった。店員は千夜に見えるように、箱の蓋をそっと開けた。中には陳列台に並んでいるのと同じチョコレートが、ぎっしり詰まっていた。
「本当ですか? これ貰って良いんですか」
「もちろん。それから、これもどうぞ」
彼が千夜に手渡したのは、名刺サイズの金色のカードだった。それは金属でできているようで、薄いけれどずっしりと重みがあった。
「いつでもチョコレート無料サービスカードです」
「はっ⁉」
カードに刻印された文字と同じ言葉を、店員は口で説明した。仰天した千夜は変な声が出てしまう。
「どれでも好きなだけ、チョコレートをサービスさせていただきます。もちろん、お代は必要ございません。いつでも食べにいらしてくださいね」
にっこり顔の店員に、後光が差している。この世に神様が存在したとしたら、きっとこんな風に目に映るに違いない。
「本当に……本当に?」
「もちろん。あなたは特別です」
甘い声だった。チョコレートのように。
「夢みたい……うそでしょ、本当にこれは現実?」
「現実だよ。君は特別」
店員の声が一段と甘くなった気がしたが、千夜の注意はそちらには引かれない。
「嬉しすぎる。私、大好物なんです。チョコレートが! 他の何よりも大好きなんです!!」
「へえ」
嬉し涙が滲んできたので、千夜の視界はぼやけていた。なのでこの時の店員の表情は、彼女に見えていなかった。
この時彼は、笑っていなかったのだ。
「……予想より、厄介そうだな」
その言葉はとても小声で呟かれたので、有頂天の千夜の耳に入ることはなかった。
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