19 一難去って

「はぁ……」


 結華はボスン、とベットに突っ伏し、ごろんと仰向けになる。

 その後、律がバイトに採用されると仮定しても、給料を受け取れるまでは持ち金がないのでどうするかという話になり。


『じゃあおれが貸すよ』


 と湊が引き受けてくれたのと、自分も家賃について一応両親に話しておくから、と、言って、持ってきた食料品も念のためと置いておくことにして、そこでやっと、解散になった。


(伊織のことも店長にラインしたし……湊の部屋に置きっぱだった宿題は回収したし……もうないよね……?)


 土曜からここまで、驚きの連続だ。


「りっちゃん……名字変わってたな……」


 結華の知る『りっちゃん』は、中館律という名前ではなく、守屋もりや律だった。

 そして、りっちゃんは、結華が当時付き合っていた子だった。小中高と恋愛から遠い生活をしてきた結華は、幼稚園児時代に唯一の、恋というものをしていた。

 幼稚園児。それも三歳。大人から見ればお遊戯だろう。けれど、結華も律も、互いに本気だった。将来結婚しようとまで言っていた。だから、律が引っ越すと知った時、本気で泣いたし、律も泣いた。そして結華は、自分が好きな紫色のフェルトで、律が好きなクマのぬいぐるみを作って渡したのだ。

 これを自分の代わりに持っていって。私のことを忘れないで。


『忘れない。ゆいちゃんのこと忘れたりしない』


 律はムラクマを抱きしめ、はっきりと言った。


『ほんとに?』

『ほんとに、忘れない。だってゆいちゃんと結婚するんだもん! ……ゆいちゃんは、ぼくのこと、忘れない?』


 不安そうになる律に、結華は抱きつく。


『忘れないよ! 絶対忘れない!』

『ほんと……? 約束してくれる?』

『約束。忘れない』

『ほんとに……?』

『嘘言わないもん! あ! じゃあ、誓いのきすしよう』


 結華は、律から体を離して言った。


『誓いの……?』

『うん。誓いのきす。……やだ……?』

『や、やじゃない! ちょ、ちょっとびっくりしただけ! する!』


 赤い顔になった律は、まっすぐに結華を見つめて。

 見つめられた結華も、顔が赤くなった。

 そして二人の顔が近づき──


「恥ずい恥ずい恥ずい恥ずい」


 結華は両手で顔を覆い、横向きになって足をバタバタさせる。


(なんとか平静を保てて良かった……こんな恥ずい話、二人に出来ないし……)


 ──あの約束、まだ有効か?


「! ……?」


 結華は顔を赤くしたあと、疑問が頭に浮かんだ。


(あの約束って、どの約束……?)


 将来結婚しよう。お互いに忘れないでいよう。


「……いや、無駄だ。あいつはあのあとからかってきた。ただ私で遊んでただけだ」


 結華は起き上がり、ため息を吐くと、


「あーあ。幼い頃の綺麗な思い出が黒歴史になっちゃったじゃん。……まあ、人生、そんなもんか」


 結華は諦めたように息を吐いて、ベットから降り、宿題の残りに取り掛かった。


 ❦


「……あいつ、まだコレ、飲んでんだな」


 床に座り込んでいる律は、空のぶどうジュースのペットボトルを振りながら、呟く。ムラクマは既に、今度は鍵付きの引き出しに仕舞い直してある。


「……覚えてたんだな……俺のこと……」


 あのクソ野郎が、自分の物を全て捨てなければ。自分は『ゆいちゃん』のフルネームを忘れることなく、顔写真も残ったままで、入学した時にすぐ、気づけたかも知れなかったのに。


「……また会えただけでも奇跡だな」


 皮肉げに言う。この想いが叶うとは、到底思えないから。

 だけどまた、りっちゃんと呼んでくれた。

 今日はゆいちゃんと離れ離れになって、地獄が始まってからの十数年の中で、一番幸福な日だろう。


「……ハァ……」


 律は、コトン、とペットボトルを床に置いて、ため息を吐いた。


 ❦


「……ん?」


 宿題を終え、明日の準備をしていた結華の耳に、インターホンの音が届いた。


(誰だろ)

「はーい!」


 身だしなみを確認し、玄関へ。


「あ、こんにちは。……こんばんわですかね?」

 周りに癒やしをもたらしそうな柔和な笑顔で立っていたのは、二ッ岩明ふたついわあきらだった。


「あはは、どっちですかね。どうかなさいました?」

「いえ、その、如月さん……だと通じないか。結華さんと少し、お話がしたくて」

「私、ですか? 父や母でなく?」

「はい。……あの、今、お家にいるの、結華さんだけですかね」

「……そうですけど……」


 結華は話が見えず、じり、と下がる。


「あ! いや! すみません! 誤解を招きますよね! その、変な意味でなくてですね、その……お礼がしたくて……」

「お礼? ですか?」

「はい。昔に、あなたに助けていただいたお礼です。……この姿だと、なんの話か分からないかと思いますけど……」


 歯切れの悪い明に、結華は首を傾げる。


「その……結華さん。あなたは、幼い頃に、その……たぬき、を、助けたことを……覚えてらっしゃいますか……?」


 不安そうに言われたその内容に、結華は頭を抱えたくなった。


(覚えている……! しかもこの話の流れは……! いや、飼い主さんとかの可能性も……!)

「お、ぼえてますけど……なぜ逆に二ッ岩さんがご存知で……?」


 こわごわ聞く結華に、「その……」明は周りを確認する仕草をして。


「……ん?」


 眉をひそめ、結華から見て左の、空中に右手を伸ばし、何かを掴む仕草をした。


「グルルアォウ!」

「えっ?!」


 瞬間、その少し先にパッと現れたのは、体をバタつかせているディアラ。


「君、誰かな」


 何かを掴んだ手の形を崩さないまま言った明の言葉に、結華はハッとする。


「あ、あの! もしかしてその子を掴んでます?! えっと、その子は無害なので! 離してあげてください!」

「? お知り合いですか?」

「ディアラ!」


 そこに、上から湊が降ってきた。


(ぎゃあ?!)


 明に踵落としをかまそうとしたらしい湊の足が、空中でバキッ! と音をさせて、明に到達する前に止まる。


「チッ!」


 湊は新体操のような、結華には理解が追いつかない動きで身をひねって跳ぶと、階段スレスレの場所に降り立ち、何か構えのような形を取った。


「……ディアラを離せ」


 湊が低い声で言う。


「その『ディアラ』というのは、不思議な気配を放つこの子ですか?」


 明は、暴れ疲れてくったりしたディアラへ目を向けながら、静かに問いかける。


「そうだよ。お前──「はい! やめ! 終わり終わり終了!」


 結華は湊の言葉を遮り、ディアラへ近寄って、明へ顔を向ける。


「この子は無害です! なんでここにいるかは知りませんが、敵ではないので! そしてあなた達は唐突なバトル展開をやめてください! 二人とも中入ってください! 中!」

「ですが」「結華」

「二ッ岩さんは話を聞かれたくなくて、周りを警戒してたんですよね? で、ディアラを見つけちゃって捕まえちゃった。湊はディアラを助けようとした。双方、この理解で合ってますか」


 結華は、二人を交互に見て言った。

 明は頭に左手をやり、


「……まあ、警戒……みたいなものですかね」

「おれは、ディアラを助けに来たのはその通りだけど、アンタも警戒してる」


 湊は険しい顔をして、構えを解かない。


「ボクは、あなたの気配からして、あなたもボクのような存在かと思っているんですが」

「気配は独特だろうが、生憎おれは人間だ」

「そうですか」

「だからそういう話、中でしません?! 絶対込み入った話になるから! あなた方二人が喧嘩すると喧嘩に収まりそうにありません! ディアラを! 離して! 中に入る! 二人ともです! 良いですね?!」

「……結華さんがそこまで仰るなら」


 明はそう言って、手を離す仕草をした。すると、くったりしていたディアラは一瞬落ちかけ、


「ディアラ!」

「ックルゥ!」


 湊の声に呼応するようにパッと翼を広げ、湊へ向かって飛び、湊の胸の中にスゥ、と入っていった。


「で、はい! 二ッ岩さんも! 湊も入る! はい! 入って!」


 結華は湊の腕を掴み、明の背を押して、玄関内へと二人を入れ、ドアを閉める。


「はぁ……。……で」


 もう力尽きたい結華だったが、気力を振り絞り玄関へ上がり、


「二ッ岩さん。その話は、うちの両親に聞かれるのも困る話ですか? なら、場所を移します」

「あ、あー……えっと、そうですね……なるべく知られたくないのですが……もう、佐々木さんにほぼバレてしまいましたし……」


 どうしましょう……。と頭をかいて困った顔になる明。


「そこは問題ないです。湊は秘密を喋りません。ね?」


 結華が湊へ顔を向ければ、


「……まあ、どっちもどっちだし……結華に危険が及ばないなら……」


 不承不承、というような顔と声で、湊はそう言った。


「なら私の部屋へいきましょう」

「え?」「は?」

「しょうがないじゃないですか。リビングに居れば帰ってきた両親とかち合うかもしれない。他に適切な場所もなし。やむ無しの選択」


 腕を組んで肩を竦める結華を見て、明は不安そうに、


「それ……ボク……捕まったりしませんか……?」

「捕まるようなことをする気ですか?」

「滅相もありません!」

「で、湊も良いよね?」

「あー……うん……まあ、そうだな。諦めよう」

「なんだって?」

「なんでもないです」


 結華は二人を見て、


「じゃあ、靴脱いでください。案内しますので」


 と言った。



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