第2話 航と桔梗

すみれは生まれ育った北海道から、航と桔梗が暮らす東京へと移り住むことになった。


航は一人で飛行機に乗って羽田空港へ着いたすみれを出迎えてくれた。


「一人でよく来たね。偉いぞ。」


航に頭をくしゃくしゃと撫でられて、新しい土地に舞い降りた不安で一杯なすみれの心がほぐされていった。


航はすみれの荷物を持ち、すみれの歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれた。


近くの駐車場に停めてあった若草色のフィットの前まで来ると、すみれは助手席に、航は運転席に座りすみれのシートベルトを付けた。


「ハラ減ってるだろ?バアさんがご馳走を作って待ってるってさ。好き嫌いはないか?」


本当はひとつだけ食べられないものがあったけれど、それを言ってはいけない気がして、すみれは「ないです。」と小さな声で答えた。


「正直に言っていいんだぞ?俺はトマトがどうしても食えないんだ。いや、トマトにリコピンという身体に有益な栄養素が入っているのは理解している。しかし理解することとそれを受け入れることはまた別の問題なんだ。・・・で、すみれちゃんは?」


航が先に苦手な食べ物を教えてくれたので、すみれも打ち明けた。


「本当は・・・きゅうりが嫌いです。」


「そうか。きゅうりは95%が水分だ。別に食えなくても構いやしない。バアさんにはトマトときゅうりのサラダはNGだと伝えよう。」


「はい!」


すみれがそう元気に返事をすると航も大きく笑った。


「よし。いい笑顔だ。これからその花のような可愛らしい笑顔をたくさん見せて欲しい。それが君の叔父さんからの唯一のお願いだ。」


そう言ってハンドルを握る航の横顔を見ながら、なんの根拠もないけれど、この人に付いていけばこの先何があっても絶対に大丈夫、とすみれは思った。


「あの・・・。」


「ん?」


「叔父さんのこと・・・なんて呼べばいいですか?」


すみれの問いかけに航は少し間を置いてから言った。


「好きなように呼んでくれていいよ。叔父さんでもお兄さんでも。」


「じゃあ、航君って呼んでもいいですか?」


叔父さんやお兄さんではなく名前を呼びたいと思った。


「航君か。なんだか照れ臭いけど・・・じゃあそう呼んでくれ。俺も君のこと、すみれって呼ばせてもらうから。」


「はい。」


初めて航から「すみれ」と呼ばれ、なんだかくすぐったかった。




航と桔梗の家は東京の世田谷区にあった。


世田谷区といってもいわゆる高級住宅街ではなく、川崎市に近い多摩川がそばに流れる地域だった。


青い屋根の大きな木造一軒家に二人は住んでいた。


家の中に入ると綺麗に磨かれた廊下があり、一階にはリビングとキッチン、桔梗の部屋、そして客間があった。


全体的に古い造りだったけれど、どの部屋も小綺麗に整理され掃除が行き届いていた。


客間からはかすかに線香の匂いがして、これは桔梗が今は亡き夫に毎日手を合わせ供えるときの残り香だった。


リビングには大きな焦げ茶色のダイニングテーブルがあり、その中央にあるカゴの中にはすみれの為の蜜柑や菓子が沢山入っていた。


二階には部屋が3つあり、航の部屋、物置、そしてすみれの部屋も用意されていた。


ピンク色の水玉模様のカーテンに白い家具の、まるでショートケーキみたいに可愛い部屋だった。


べッドは花柄の布団カバーとシーツで揃えられ、机の上にはうさぎのぬいぐるみが置かれてあった。


スリッパも目覚まし時計もうさぎのキャラクターものだ。


部屋の中をキョロキョロと眺めるすみれの後ろで、航が心配そうに言った。


「どうだ?ちょっとファンシー過ぎたか?これでも塾の女子生徒に相談して用意したんだが。」


「すごく可愛いです!航君がこのインテリア考えてくれたんですか?」


「まあね。女の子の部屋なんて見当もつかないから自信ないけどな。不便なところがあったら言ってくれ。」


「大丈夫です。すごく気に入りました。」


「なら良かった。これからはどんなことでも俺に相談して欲しいな。俺に言いにくいことがあったらバアさんに言えばいい。困ったことがあったら一人で抱え込まないこと。いいね?」


「はい。」


すみれはその言葉を胸に刻んだ。


久しぶりにすみれと再会した桔梗は老眼鏡を外してすみれを抱きしめた。


「大変だったね。お葬式に出られなくてごめんよ。もう大丈夫だからね。」


すみれはコクリと頷いた。


「お腹が空いただろ?ちらし寿司を作ったんだ。一緒に食べよう。」


テーブルに着いたすみれは、桔梗と航と一緒に、まだ温かいちらし寿司を食べた。


「俺はこれが好きなんだよ。」


航は桜でんぶを自分のちらし寿司に山ほどかけた。


「すみれもいるか?」


航に聞かれすみれは頷いた。


すみれのちらし寿司にも桜でんぶがかけられた。


その桃色の食べ物は、口の中で甘く溶けた。




桔梗は年金暮らしの65歳、高校受験の進学塾で講師をしている航は25歳、すみれとは15歳離れていた。


「どうしてパパは私に航君を紹介してくれなかったのかな?」


その答えを桔梗はすみれに淡々と話した。


「紘一と航は一緒に暮らしたことがないからね。」


「え?」


「航は私の兄夫婦と京都で暮らしていたんだよ。」


「どうして?」


「私の兄夫婦に子供が出来なくてね。それでどうしても航を自分達に育てさせて欲しいと懇願してきたんだ。あんたのところは男の子がふたりいるからいいだろ?ってね。私は自分の子は自分で育てたいと言って断固拒否したんだけど、恭弥さん・・・あんたのお祖父さんが兄夫婦に同情して最終的には了承してしまったんだ。今でも後悔してるよ。」


そう話す桔梗の顔は暗く沈んでいた。


「でも恭弥さんが病気で天に召されて私一人じゃ心配だからと、航はつい最近京都からこの家に戻って来てくれたんだよ。」


「そうだったんだ・・・。」


「航は優しい子だから、すみれも大船に乗ったつもりでどんどん頼ればいいよ。ちょっと理屈っぽくて思っていることを隠せないところがあるけどね。」


そう言って桔梗は目を瞬かせ、話を元へ戻した。


「だから紘一にとって航は遠い親戚の子、という意識しかなかったんだろう。大人になってもほとんど交流がなかったみたいだし。」


もっと早くに航君と出逢いたかったな・・・とすみれは残念な気持ちになった。


すみれは北海道から持って来た両親のアルバムを引っ張り出した。


アルバムのどこかに昔の航が写っているのではないか?と思ったのだ。


けれど父、紘一の学生時代のアルバムにはもちろん、家族で撮った写真にも航は写っていなかった。


最後に両親の結婚式のアルバムを開いてみた。


表紙をめくると一番最初のページには白いウエディングドレスを着た可憐な母百合絵と、その横には若々しい父紘一の、幸せそうに笑っている写真が貼られていた。


次々とページをめくっていくと、賑やかな披露宴の写真が現れた。


ケーキ入刀をする紘一と百合絵、スピーチをするドレス姿の若い女性、そして丸いテーブルを囲んだ列席者達。


その中に学生服を着た航の姿があった。


「航君だ!」


航はカメラに目線を合わせ、神妙な顔つきをしていた。


それはほんの小さくしか写っていなかったけれど、すみれには航だとすぐに判った。


いまより幼い顔がなんだか可愛く思えた。


「航君、パパとママの結婚式には出席したんだ。」


すみれはその写真をアルバムから外し、宝物を隠すように机の引き出しに仕舞った。



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