それからというもの、私の喉は食べ物を通さなくなった。水でさえ酷く染みて飲み込むのも難しかった。こんなことはかつてなかった。頬がげっそりとこけ、日に日に体もやせ細っていく。家族も彼氏も心配するが、自分が一番困惑した。医者にいけという言葉を聞き流し、ベッドに寝込む日が続いた。お見舞いに彼氏が買ってきた有名な洋菓子店のタルトを見て、それだけで胃液を吐いた。ほんのりと香ばしい死の予感がした。


 これではいけない。


 そう思い立ち、私は夜中にベッドから這い出した。


 まずは服を着替えようとして、自らの劇的な変化に気付く。まともに着られる服がないのだ。ジーンズを穿けば私がもう一人は入れそうなゆとりがあり、シャツに袖を通せば襟からカンガルーの子供でも顔を出しそうな程に胸元があく。二人羽織だって出来そうだ。姿見を覗くと、驚いたことに縦長にトリミングされるはずの私がすっぽりと鏡の中に収まっている。まるで別人だった。


 私は脱衣所の洗濯カゴにあった弟のスキニーとポロシャツを着た。奇妙な気分になる。ふわふわとしたまま家を出た。正常な意識ではなかった。喉が渇いたから水を飲ませてもらおうと扉を開ければ、そこは決して行くことのなかった渋いワンショットバー。引き返すこともできず、よろよろと歩いていって、カウンターのスツールに腰かける。


「なんになさいます?」


 紳士なのか遊び人なのか判然としない男がカウンター越しにきいた。お客様は神様だと理念を掲げていたとしても、私のことは貧乏神にしか映らないだろうに。


「優しいものを」


 男は曖昧な注文に質問もしなかった。すぐにほんのりとした赤を注いだグラスが出てくる。恐る恐る口にすると、アセロラの味がした。ジュースなのかカクテルなのか知らないが、これなら飲めそうだった。何より喉が渇いてしょうがなかった。クッと飲み干し、目の端から涙を滲ませながらグラスを置く。


「今日はどうしたの?」


 隣からかかった声に虚をつかれた。スーツを着た30あたりの客が少し離れたところから私に微笑みかけている。男性とは父親と彼氏としかまともに話したことがなかった私は目を丸くしたことであろう。


「少し話そうよ」


 その客は私の返事も待たずに真隣に移動してきた。


 ありえないことだ。何かの間違いだ。それともからかわれている? バカにされている?


「なんでもないんです…………もう帰ります」


 私は逃げようとして、そしてヒヤリとした。お財布を持っていなかったからだ。スマホだってない。私は何も持っていなかった。アタフタしている私に彼はまた笑ってみせた。


「大丈夫だよ」


 よく覚えていない。


 息を切らして部屋まで走った。そこそこの距離だったのにあっという間だった。手には先ほどの男の連絡先が書かれたメモがある。信じられなかった。


 その日から約一ヶ月ぶりに彼氏と会うと、彼は口をぽかんと開けて呆然した。


「君なのか? 信じられないな…………」


 服装も変わった。何でも着られたし、何でも似合った。私の体は着る服を選ばない、すらりとしてしなやかなものとなっていた。


 楽しくて仕方がない。モデルの体を借りているようだ。服を脱げば肥満の跡であるうっすらと伸びた皮があったが、そんなものは気にならない。


「すごく綺麗だ」


 彼氏は耳にタコができるほど囁いた。綺麗…………違和感があった。なぜだろう。


 私たちは飽きることなく何度も体を重ねた。


 ある日、私は新しい服を買いに原宿を歩いていた。ほんの数時間のうちに何人もの男性に声をかけられた。「遊びに行こう」とか、「モデル活動に興味ある?」とか、そんなこと。


 彼氏がいますからと拒み続け、逃げ込んだカフェでほっと一息つく。今までは甘いものばかりを頼んでいたけれど、ブラックの珈琲を選んだ。嗜好もすっかり変わった。


 ウィンドウの向こうを太ったカップルが過ぎていく。女の子の方を自然と目で追ってしまう。あんな女に性的な魅力はない。あんな、前の私みたいな女に。


 私は変わった。誰が見ても、美しくなった。もうずんぐりむっくりと太ったツチノコなんかじゃない。艶やかで、妖しい、女。数えきれない男たちの視線の藪にからまる蛇だ。

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