第36話 rouge femme fatale


「ふふんふんふふーん」


 赤暗い月明かりの一筋が入る一室にて、女は化粧台の前に座り手の中の小箱を抱え鼻歌を歌う。

 飲み込まれそうな程の目前の鏡には、周囲を行き交う複数の縫いぐるみそして人形が忙しなく宙を駆ける様子を映す。

 犬、猫、豚、馬、鼠、人、etc。

 殆どは部屋の片付けに勤しんでいる様だったが、幾つかのぬいぐるみと人形は女の髪に櫛を通し、水気の残る髪にドライヤーを当てている。

 物を持つのに適さない体付きでぎこちなく、難儀してふらついている。

 一つのドライヤーを動かす鼠のぬいぐるみが手を滑らせた。


「あっつ! ちょっとアッシー! ドライヤー近い」


 首筋に向いたドライヤーの口を弾くと、ぬいぐるみと共に床を転がった。

 すぐさま起き上がり申し訳なさそうに頭を下げる。


「次やったら貴方の体をカエルに変えるわ。……キモい事言っちゃった。貴方のせいよ」


 女は機嫌を損ねながら長い髪の具合を確認する。

 通した指の隙間を手応えなく髪が通り抜けた。


「……こんなものかしらね。まぁ良いわ。皆んな部屋に戻るわよ」


 立ち上がり人差し指を一つ回すと人形達の覚束ない動きがキビキビとした軍隊然とする動きに変わる。

 女のセットに使っていた道具類をテキパキとものの数秒で片付けを済ませた。

 更にもう一つ回すと人形達は規則正しく整列する。

 そして女は一つ頷き、扉に向かい外に出ると続いて人形達も後を追った。


 扉の先には左右に伸びる長広い廊下があり、点々と燃ゆるランタンが足下を確かなものとした。

 それでも薄暗さが否めなかったが、女は慣れた足取りで左へ曲がり音無く進む。

 そのまま行くと壁に突き当たり、右手の道に。

 更に進んで半ば程まで来ると左手に背丈を優に超える戸が現れる。

 それを易々と開いて女は中へ。


 大小様々な縫いぐるみが所狭しと部屋を占領し、それをものともせずに踏みつけながら奥の広いベッドまで向かう。

 後を来た最後尾の人形が部屋の施錠をするとベッドに飛び乗った女が指を鳴らす。

 すると生き物の様に振る舞っていた縫いぐるみ達は元の玩具を思わせる唯の物品へと還り、床へ落ちて不規則に跳ねた。

 女一つ息を吐く。

 持っていた小箱を枕元に置き仰向けに寝そべった。

 徐に右手を上げて爪を凝視する。


「今日のネイル良い感じね。確か……アヒルだっけ」


 生き生きと波打つ脈を思わせる鮮血の色合い。

 気に入った様子の女は不釣り合いに気怠げな独り言を口にする。


「貴方、人形に昇格ね」


 誰からも返事の無い言葉を続けた。

 風鳴りも獣の咆哮も何一つとして届かない静寂の最中。

 それからの女は眠るわけでも無く、瞬きを忘れて天井を見続ける。

 どれくらい経ったのだろうか。

 一時間、二時間。はたまた三十分、十分も経っていないのかもしれない。

 自意識だけを頼りとする漠然とした時間感覚を過ごし、唐突に女は勢いよく半身を持ち上げる。


「さてと」


 そう言って枕の先にある窓に這って行く。

 窓に手を掛けて、長く開けていなかったのか少しの力を必要として外と繋がった。

 途端に髪を揺らす一つの風が吹き抜ける。


「んー気持ち良い風」


 窓の縁へ肘を立てその先の灰褐色と化した世界へ目を向けた。

 自然の色合いは抜け落ちたそれに女は蕩ける様な笑みを浮かべる。

 この世界をただ一人の物として自然循環の営みを咀嚼する優越感。 

 上位に立つ者の下卑た精神性を感じさせた。


「ちょっと飽きてきちゃったわねー。この景色にも」


 女は少し考え目線を上に向け唸る。

 「こうしましょうか」とポツリと呟いて中指を鳴らす。

 反響したそれに世界が呼応する様に大地は歪み、木々は捻れ、空は垂れ下がる。

 粘度を持って世界は溶けて行く。

 そして渦を巻いてその一切が一つの球の如く集約される。

 

「夏の陽射しと……そしてビーチ。これね」


 厚みのあるエコーの掛かかった女の声色。

 集合された全ての物質が、次の瞬間に一帯へ再構築される。

 逆回転に広がった世界に色付いたオーシャンブルーと遥かな先には地平線。

 乾いた黄土色の砂浜を輝かせるのは肌を焼く快晴の光り。

 強い漣の寄せ返しと塩気のある海風が始まる。


「うーん。美味しい」


 窓の縁に肘を掛ける女の姿は変わらない。

 だがその手にはいつの間にやらグラスが握られており、海を模倣する明るい水色の液体が注がれていた。

 渦巻くストローに口を付け、静かに中の物に舌鼓を打った。

 中の氷が心地良く転がる。


「私による、私の為の、私だけの世界。この特権だけは誰にも渡さないわ」

 

 水平線を見やり言葉を紡ぐ。

 遥か先にいる何かに話しかける様に。


「真の幸せとは苦しみ抜いた先にある一粒の雫。もっともっと掻き回せば退屈せずに済むかしら」


 女はグラスの中身を飲み干すと、それを窓の外に落とす。

 地面に砕かれたグラスは瞬く間に姿を変え、真白い小鳥が一羽飛び立つ。


「……守れる物なんて、たかが知れてるわよね」


 自由に羽ばたく小鳥に手を翳して空を握り締める。

 飛んでいた筈の鳥の姿は掻き消え、女は水滴を払うかな様に手を振るった。

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