第3話

 灯理は風邪をひいた。

 昨日、雨が降る中遠回りして帰ったからだろうか。一日寝れば治るだろうと、兄を会社へ追い出し、近くの病院でもらってきた薬を飲む。

「体温計どこだっけ」出る声は咳よりましだ。

 いっそ歌でも歌おうか、と考えて頭痛を自覚する。音楽を聞くのはもっと難しそうだ。

 灯理は唸った。

 粉薬が喉に引っかかったので、そそがれていた白湯をゆっくりと飲む。温度が下がっているので、違和感がある。熱いか冷たいかにしてほしい。マグカップを睨んで、早々に温めなおすのを諦めた。台所は遠い。兄の用意した保温ポットに目をやり、感謝する。親代わりの兄の好意は無駄にしない。

(今、向こうは何時だろう)

 灯理の中学入学と同時に、父の海外勤務先に飛んだ母は行動的だ。成人する頃には帰ってくる、と笑っていた。母も母で、父の勤務先近くで仕事があったらしい。運命ね、と笑う母は若々しい。近くでできる仕事を勝ち取るか、ねじり込むかしたのだろう。母の愛情は、兄にも私にも注がれているが、父への愛が一番だというのが兄との間での定説だ。

 呼吸が苦しくなり、灯理は咳き込んだ。

 背を丸めると、ベッドの隙間にある作りかけの靴が視界に入った。早く治そうと心に決める。妖精レプラホーンの作る靴はどこにでも行ける魔法の靴だ。本物なら空だって夢の中だって歩ける。まだ完成させたことはないが、練習するのは楽しい。縫う糸も針も特別なものではないけれど、いつか誰かの足元を照らすことができる。多少でこぼこした道でも歩けるだろう。僅かな明かりだってないよりはましだ。

(最初に作るのは誰の靴だろう)

 想像して考えて、それでも思いつかなかった。

 今はベッドの上で咳き込んで唸っている身である。寝れば治るなら、大人しく寝ている。目を開けて天井を見て、星座の模様を辿った。夜になれば星の部分が淡く光る。この壁紙は少々子供っぽいとは思うが、気に入っている。

(そういえば、金平糖おいしかったな)

 同じ教室なので音積と挨拶したことはあった。小人の妖精の頃からよく顔を目にするようになった。武術は得意らしく、動きが美しいのでつい見学してしまう。

 そんなに不思議なことではない。

 次第にカーテンの向こうの景色が、朱に染まっていく。

 しばらくして、玄関のチャイムが鳴る。起きるのが面倒だが、確認くらいしようと、携帯端末を起動した。

 インターフォンの画面には、音積がいた。

「東雲です。どうしたの?」

『見舞いに来ました』

「ありがとう。珍しいね、音積くんだけ?」

『ぼくもいまーす。灯理ちゃんのお見舞いに、いろは庵のプリンを持ってきたよ』

「由比!」

 私はあわててパジャマの上に上着を羽織り、玄関へ向かう。

「いきなり起きちゃだめじゃない」由比は口を尖らせて言う。「すぐ帰るから、ちょっと上がってもいい?」

「うん、どうぞ」

「お邪魔します」音積の声は落ち着いている。

 具合の悪い時に聞くとずいぶん安心する。録音しておきたいぐらいだが、許可を取るのは難しいだろう。

「お邪魔しまーす」由比は勝手知ったる我が家とばかりに迷いなく歩き、冷蔵庫へプリンをしまう。「はい、これもおみやげ」と灯理の好きな飴を置いた。

「ありがとう」灯理は微笑んだ。

「こっちはね、音積くんのセレクションなの」

 由比はハーブティーと、見たことのないパッケージのチョコレートを台所のテーブルに置く。死神の砂糖でも入っているのだろうか。元気は出そうだ。

「さあ、これでもう大丈夫。じゃあ、ぼくは帰るね。灯理ちゃんお大事に」

 音積がいる意味は、よくわからないままだ。

「じゃあね。よーく寝て、よーく体を休めること。じゃないと、ぼくが困ります」

「ノートの写しがあるので、置いておきます」

「ぼく先に行ってるね。マンションの下で待ってるから」

 由比を見送り、音積がノートを取り出すのを待つ。時計の針が時間を主張するが、嫌ではなかった。

(そっか。音積くんはノート要員か。由比は勉強苦手だしなあ)

「東雲さん、ノートはここに置いておきますね。ぼんやりしてますが、熱はありますか?」

「そこそこかな。大丈夫だと思う」

「嘘じゃないんですよね」

「知ってるのに聞くのはどうして?」

「心配だからです」

「そっか。ありがとう」すんなりと礼は言えた。

「お大事に。ではまた明日」音積の声は小さい。気遣ってくれているのだとわかった。

 言葉と一緒に音積の手が伸びて、ふわりと頭を撫でられた。

 考えたことが霧散する。

(また明日?)

 拾った音積の言葉は、やはりよくわからなかった。明日は学校が休みだ。

 プリンは一日三十個の限定品で当然のようにおいしいし、ハーブティーはほんのり甘くてほっとする。チョコレートは兄の好物なので食べないでおくことにした。

 なにかお礼をしなくては、と考えて眠ったら、夢の中の巨大なチョコレートが、音積の声で「また明日」と笑った。食べなかったことを恨まれたのかもしれない。

元気が出るとわかっていても、金平糖だって一粒が限界で、チョコレートは食べるのも難しい。どうにかひと欠けらくらいは口にしようと決める。

(それよりも、なんで頭を撫でるんだろう)

 もらったものをうまく消化できない日。

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雨と砂糖と君の声 ことぼし圭 @kotoboshi21kei

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