第2話

二服目に吹雪が出したのは皐盧庵こうろあん桐壺きりつぼをお薄で點茶したものだ。


千弦はパステルカラーの菊壽糖きくじゅとうで口を甘くして、茶碗を丁寧に拝観してから、吹雪の方に絵柄を向けフワフワのお薄に口をつける。その一連の動きは、彼女の育ちの良さを窺わせた。


「うわあ、美味しい」


にっこりと微笑む千弦に、吹雪は不躾な質問をぶつけた。


「なんで今日は金比羅こんぴらさんを通り過ぎたの?」


吹雪の質問に千弦の笑顔が凍る。


「え?なんでわかるんですか?」


吹雪の言った金比羅さんとは、安井金毘羅宮やすいこんぴらぐうという神社のことだ。〝縁切り神社〟の別称が有名で、全国から様々な願いを持った切羽詰まった女性が集まる。


(なんで客商売なのに、好き勝手な発言できるのかなー。せっかく初めて来てくれたのに二度と来ないかもしれない)


そんな塔子の想いをよそに、吹雪は話しつづける。


「花見小路の観光に用があれば建仁寺で皆折り返すし、東山通りから来たら皆、金比羅さんの方に入ってくしね。水の入ったバケツに気付かないくらいボーっとしてたってことは、金毘羅さんに入れんと悩んどったんちゃうかって当てずっぽう」


胡散臭い吹雪の笑顔が、白々しい。しかし、千弦にはそれが刺さったみたいだった。大きな二重のキラキラした目からは大粒の涙が溢れている。


「まあ、当たりみたいやね」


千弦は頷いた。


「そうなんです。本当は縁切りに来たんです」


俯いて、肩を震わせながら千弦は話を始めた。


「今付き合ってる彼と別れなさいって親に言われていて…でも、どうしたらいいか分からなくて」

「じゃあ、親と縁を切るか、彼と縁を切るかで悩んで決められず通り過ぎてここまで歩いてきたんやね」

「そうなんです…。親の気持ちも分かるけど、彼のことも好きだから、決められなくて」


しかし塔子には心掛かりな点があった。


「でも、千弦さんすごく怪我多くないですか?」


それはさっき膝を消毒する時に気付いたことだった。こんなに暑いのに、ストッキングではなくて肌色のタイツを履いていて、破れているのに脱ごうとはしなかった。塔子は破れて血が出ている膝だけを消毒したので、見られたくない何かを隠しているのかな?と違和感を感じていたのだ。


塔子の言葉に千弦はビクッと肩を震わせる。


「そ、それはさっきみたいに私がすぐ転んだりしちゃうから…」


塔子はその返答だけでピンとくる。塔子は高校生には間違いないのだが、諸事情により数奇な運命を辿った結果塔子の中身は既にアラサーなのである。


「どちらと別れるにしても、直接本人には別れを切り出せない・・・・・・・・・・・・・・・・んやね?」


吹雪は優しい声で千弦に聞くと、目を細めた。塔子はこの表情が微笑みではないことを知っている。


「そんな時の神頼みやから、全然頼ってくれてええでって僕も言うし、金比羅さんも言うと思うわ」


吹雪は千弦に背を向け、カウンターに並べてある茶缶を取り出す。三服目のお茶の準備を始めるようだ。竹の茶杓で掬い、茶漉しに移して濾す音が響く。


無駄のない優雅な點茶だ。千弦も涙を止めて、見惚れているように見える。


「三服目は柳桜園の新茶〝浮舟うきふね〟やね。千弦ちゃん見てたら、これやなって思った」


千弦は鳥獣戯画の描かれた茶碗を手に取る。そしてコクリ、コクリと3度傾けて飲み干した。


「少し…苦いです…」


眉をひそめる千弦に吹雪は笑い出した。


(吹雪ホント頭おかしい…)


塔子はもうこの空気をどう処理していいか分からず、困りはてている。


「千弦ちゃんは、親と一生死ぬまで暮らしていきたい?彼と別れて実家に戻るの?」

「いえ、私は…一人暮らししたいかなって」

「無理だよ、すぐつけ込まれるタイプだから。多分僕が一緒に住もって言ったら断らないでしょ」


突然の吹雪の言葉に、千弦は頬を染める。


「確かに推しに弱いかな…って」


(なにゆうてんねん、この狐殺したろか)

塔子は吹雪に殺意を抱いた。


「そうだね、だから多分別れられない。親の庇護下に入って、彼との縁を無理やり断ち切ってもらわないとね」

「でも…っ」

「そう、でも彼と別れたくない」


再び泣き出しそうになる千弦相手に、吹雪はとことん容赦がなかった。


「金比羅さん通り過ぎた時点で、千弦ちゃんの気持ちって決まってるんだよ。彼に直接別れが告げられないどころか、神頼みすら怖がっているんだもの。普段信心深くないでしょ、神様を信じてないね。なのに罷り間違って、彼と縁が切れてしまったら?と怖がって神社にすら入れない」


千弦は震えていた。吹雪は営業用の仮面が外れている。


「同棲している彼氏に殴られていても、それを含め好きやったら千弦ちゃん幸せやと思うし。別れても親元で支配され続けない限り、元鞘か次の彼氏に同じ感じで扱われるだけやと思うから。僕ぐらいはその恋を応援しとく」


塔子はうちのバケツを転がしたばっかりにこんな目にあう千弦に心底同情した。申し訳なくなるばかりである。


「あの…!ごめんなさい!ご馳走様でした、帰ります…」


千弦はいたたまれない空気に耐えかねて、立ち上がった。目には沢山涙を溜めている。


(うちの店最悪じゃん…)


千弦は札を何枚か取り出して、渡してくる。

「ごめんなさい、お会計お願いします」

「いやいや、貰えないです」

断る塔子に無理やり押し付けて、引き戸を開けようとする千弦の肩を抱いて吹雪が耳元で囁く。


「そうそう、もし困ったことが起きたら、そうだね。男手が必要になったら、またおいで」


「…ありがとうございました!」


千弦はお礼を言うと、そのまま出て行った。


「うん、今日の売り上げ3000円」

吹雪に塔子が殴りかかったのは言うまでもない。

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