13.自由に



         *


 香が室内にくゆる。

 南方は、薄く溜息を吐いた。


「そうして二人で暮らしていたところに、俺達がのこのこと邪魔をしたってぇ話だったか」

「――いいえ」


 梓琳ズーリンは首を横に振った。


南方ナンファン様がおいで下さったから、広大こうだいは、ここが潮時だと口にすることができたのです」

「まさか、あの時」

「はい。広大も、小屋の中におりました」


 ばたばたと、表で何かが離れを叩く音がする。窓へと南方ナンファンが目を向ければ、硝子がらすの向こうに、繁る枝の風に吹かれて打ち付けているのが見えた。風が強い。目の前の雌性おんなの、儚い命のともしびを消さんばかりの勢いだ。やりきれなかった。


「わかっていた、わかっておりました。わたくし達の歩む道に、先はないのだということは。それでも、自らの手では、終わらせることができなかった」

「心があった、ということか」

「あんな瞬く間のことで、と、お思いでしょうね」

「――いや


 南方は頸を横に振る。


「それこそ、時間の問題じゃねぇだろ」

「そう、仰っていただけますと」


 梓琳ズーリンは、ふふと笑うと、ほろりとひとつ、涙を零した。


「不思議な人だった……兵士とは思えない、やわらぎのある人でした。父親――雄性の親のことを、五邑ごゆうではそう呼ぶそうですね……それと折り合いが付かなかったことや、三人いる妹のことが心配だと口にしていました。すごいですよね。五邑には、きょうだい、というものがあるのですね。子供が、たくさん生まれる。だから、短命で死にゆく。子供を授かることは、喜びです。わたくしもいま、あの子を授かれて幸せですが、代わりに喪う重みが……こんなに……」


 梓琳ズーリンの震える両掌が、自身の顔を覆う。


「もう――百年――広大と離れて、もう百年です……きんばいで二交と暮らした百年は闇の底のようでしたが、彼を喪ったこの百年は、命が切り割かれるかと……そんな思いで生きた日々でした」


 交による被虐によって、心を殺された百年。

 一人、真実を抱え、押し殺して生きた百年。

 このファ梓琳ズーリンという一人の雌性の、末期に臨むこの二百年を思い、南方は唇を噛んだ。


「広大は、微笑んでいました。――自分はどうしても先に死ぬ。わたくしを一人残してゆくことは避けられない。自分達の関係は密通と判断されるだろう。この先自分が先に死ねば、わたくし一人にばかり、その罪咎の責め苦がなすり付けられることになる。生きてそれに耐えさせることになる。それがどうにも耐えられぬ。ここで別れて、あんたは俺に害された一人として逃げ延びろと。自身の二交殺しをした男を受け入れたものとは知られるな、と」

「――賢明な雄性おとこだったんだな」


 ゆっくりと、梓琳ズーリンは手を膝の上に下ろした。そして、ふふと笑った。

 ――嗤ったように、南方には見えた。


「一晩、南方様にお待ちいただいて、わたくしたちは、そう結論を出しました。でも、わたくしは、彼とは違う。狡賢ずるがしこ雌性おんなです。広大の種を受け入れれば、それでチャンショウ関天クワンティエンの、種核のいずれかは、この世から抹殺できると気付いておりました。わたくしは、自らの意志で交の禁を犯したのです。そういう、計算と復讐のできる雌性おんななのです、わたくしは。――でも広大は、わたくしが自由に生きられるようにと、自由に生きろと、そう何度も言ってくれました」


 げほり、と梓琳ズーリンが噎せた。手を当てるのが間に合わず、掛け布の上に赤い花が散る。立ち上がりかけた南方を、梓琳ズーリンは片手で制した。


「本当は、疑いもありました。広大も、保身をもって離別を選んだのやも知れぬと。わたくしと交わりをもったのは事実です。これをして、自らの戦線逃亡を不問にできると、そう考え動いたものかも知れないと。でも――」


 はらはらと落ちる涙。零れ落ちる赤い花。梓琳ズーリンに浮かぶ微笑み。

 それは確かに、美しかった。


「広大の訃報を聞いたのは、離れてから二年後のことでした。あの後すぐ、彼は禁軍に捕縛され、焼き滅ぼしたたい輿の跡地で、折り合いのつかなかった父親の首と共に、その首印を並べられ、骨となるまで野晒しにされたそうです。最期の言葉が「己の諡号しごうは、想木王にと」――だったそうです」


 木王は、あずさの異名だ。


「最期まで心に嘘のない、彼自身の神に従う人でした。うそじゃなかった……そんな彼の子を、卑劣な行いで生まれたことにはしたくなかった……でも、真実を託せる人は、明かせる人は、貴方様しか浮かばなかった。他の皆には、同じ苦しみを負ったものと支え合った皆には……言えなかった……」


 南方は立ち上がり、「わかったから、もう休みなさい」と、梓琳ズーリンの身を臥床がしょうに横たえた。そういう話ならば、あの時、あの場にりんした南方にしか明かせまいと、腑にも落ちた。


「子の名前は?」


 掛け布を直しつつ問うと、梓琳ズーリンはもう一つ咳をしてから、どこか、遠く懐かしい景色を見る眼差しで、こう紡いだ。


ファユーインです。――広大が、桜の木が好きだと、もしも子が授かれたならば、そう名付けようと、言っていましたので」


 ゆっくりと、梓琳ズーリンの目蓋が閉じられる。はあと、唇を震わせながら、深い溜息を零した。


「広大のいみなは――丹頂たんちょうと、いいました」

「丹頂、か」

「はい。彼の家系は、その名に鳥の名をいただくのだそうです。でも、それにならう必要はないと。我が子を授かれるのであれば、何物からも、自由であってほしいと。――彼の父親の名は、しんがんと、そう聞いています」


 薄々気付いていたその事実に、南方はゆっくりと頷く。


「それは」

「――らんだい莫残ばくざんたい輿五邑ごゆうりょ丹頂たんちょう。それが、あの子の生まれることを望み、その倖せを祈っていた、あの子の、ユーインの、父親の名です」


 ばたばたと、再び表で枝が窓を叩く。梓琳ズーリンの右手が持ちあがる、虚空を彷徨う。はっとして、南方は立ち上がった。振り返り扉にむけて「雪蘭シュエラン!」と叫ぶ。


 南方が顔を背けているうちに、宙を掴もうと泳ぐ梓琳ズーリンの指先が、さらりとほどけた。

 さらさらと崩れて、ささやかに差しこむ光に溶ける。


 南方が椅子を倒す勢いで扉へ向けて駆ける。雪蘭シュエラン梓琳ズーリンの名を叫びながら室内へ飛び込んでくる。

 南方は背を向けていた。雪蘭シュエランはまだ衝立の向こうにいた。


 だから、梓琳ズーリンの眼が最期に映したのは、百年の前に、狭い山小屋で温もりを分け合った、その人の笑顔だった。



「……広大、あなた、いたのね」



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