12.俺ン中の神さんに、顔向けできんようになるとがえすか



         *


「こげんむごかこつ、しきらん。俺にはしきらん、こげなこと……!」


 ほとほとと涙を零しながら、広大こうだい梓琳ズーリンの傷付いた身を敷布越しにかいなに納めた。強く、力を込めた。

 鼻血を落とし、豊かな白髪を引き抜かれ、全身を暴虐な欲に傷めつけられているにも関わらず、雌性おんなはそれでもまだぼうとしていた。自らの置かれた状況がよく掴めていなかった。


 ただ、てつびた匂いと、広大こうだいの着物にしみ込んだすなぼこりの臭さだけが、梓琳ズーリンの感性に触れていた。


 ふと、寝台の上で、首を刎ねられたチャンショウ関天クワンティエンの肉体が、さらさらと砂のように零れて崩れるのを梓琳ズーリンは見た。

 死屍しし散華さんげをまとった散華さんげとうで切られた月人つきびとは、かようにして絶命するものであるが、この時梓琳ズーリンは、それを初めて実際に目にした。


 目の前にいる五邑ごゆうの男は武器を手にしている。刀の柄を掴んだまま、梓琳ズーリンを抱きしめている。その武器によって梓琳ズーリンの二交は今まさに絶命したばかりだ。突然屋内に押し入ってきた見知らぬ武器持つ男など当然危険極まりない。不死のはずの月の民を絶命させる武器を持つ五邑に面しては、梓琳ズーリン自身の命も当然危うい。それでも――何一つとして心が動かなかった。男が危険であるか否かを想像する余地が、その心にはなかった。ただ為されるがままだった。


 本来ならば一難が去ってまた訪れた一難哉と逃げるべき場面であろう。しかし、そうと想像もできぬくらいに、この時の梓琳ズーリンはすでに心身が疲弊し、その感性が破綻していた。二交ときょいつにして、はや百年が経とうとしていた。


 邸宅の外が騒がしくなった。男――広大こうだいがはっと顔を上げる。じっと梓琳ズーリンの眼を見つめる。梓琳ズーリンの眼に光はない。ただこの時、梓琳ズーリンは喉が渇いたなと、そうとだけ思っていた。


「あんた、あの、あのっさい、こげん急に屋中やなかに押し入ってきた五邑の男の言うことげな聞けんと思うばってん、今――」


 そこで広大は発する言葉を一瞬躊躇ためらった。視線を梓琳ズーリンから外す。しかし時間もない。一瞬唇を噛むと、再び梓琳ズーリンの眼を見た。


「今、俺等の集の作戦で、あ、あんたら月の民のおなご全員に……その、暴行、せろち命令が出とると。意味は、わかるやろ? あんた、このままここにおったら、さっち誰かに見つかって、そしたら酷か目にあわされることになるとよ。あんた、そげな目におうごつなかろ?」


 梓琳ズーリンは、何も返さなかった。ただ、聞いた言葉の音だけを胸の中でなぞったが、それでもこれまでと何一つ大差はなかろうと、そんな風にも思った。それで僅かばかり目を伏せた。

 それで、広大は歯を食いしばった。


「でけん。今はなんも考えんと。考えてから決めるとじゃ間に合わんごつなる。あんたはまず逃げやん。ああだこうだ考えるとは、逃げて安全になってから。俺も連れ立つんのて逃げる。こげなことは真っ平たい」


 広大は慌てて周囲を見回し、近くに落ちていた梓琳ズーリン繻裙じゅくんを手繰り寄せた。当てずっぽうでそれを梓琳ズーリンに巻きつけ、掛け布を覆っていた金糸の刺繍入りの濃紺の布を剥ぎ取り、これで更に上から覆うと、散華さんげとうさやに納めて梓琳ズーリンを抱え上げた。


「なんぼむごかこつされてから、やり返すとが弱い女子おなご達でよかわけがなかろうが!」



 広大は、梓琳ズーリンを抱えて裏路地を走った。途中で暗渠あんきょに潜り込み、ドブ川をさかのぼった。途中で梓琳ズーリンも下ろしてもらい、自らの足で走った。何度も何度も、二人まとめて脚をもつれさせ、転び倒れて這い上がった。市中には怒声怒号が響き渡り、血の匂いがけぶった。やがて火の手があがり、露涯ろがいの内でも最大を誇ったきんばいの市中は一夜にして焼け落ちた。夜が、赤く染まるのを、走りながら二人は確かに見た。天の雲が灰朱に染まっていた。皆が皆、赤く染まる地獄の景色に酔いしれていた。だから、二人はその隙に逃げ切ることができた。


 二人が最初に潜んだのは赤玉廟の地下だった。暗渠から抜け出た先、最初に目に付いたのがそれだった。一晩をそこで明かしながら、広大が梓琳ズーリンの手当をしようとした。傷は初めに見た時よりも浅くなっていた。広大は驚いた。見たのはたかだか数刻前の話だ。月人の治癒速度には個人差があるが、梓琳ズーリンのそれは人並み外れて早かった。


「――なので、翌朝には、なおってしまいますから」


 伏し目がちに「お気になさらないでくださいまし」と言う梓琳ズーリンの言葉に、広大は意を汲んだ。首を絞めていた跡も最早薄い。


 交間とはいえ全てが対等なものとは限らない。広大の察した通り、梓琳ズーリン達三人のそれは彼女一人を一方的に支配下に置き、雄性二人の欲望の赴くまま、なぶり者とするのを実現するために組まれていた。

 首を落としても、断面を接しておけば元に戻る。それが月人だ。

 嬲ろうと千切ろうと犯そうとさいなもうと、夜が明ければ元通りなのである。

 果て無き加虐心は際限を持たない。結果、梓琳ズーリンに加えられる暴力とさいなみは日々のものとなった。その身にも、そして心にも。

 しかし、あったことは消えない。行われたことはなかったことにはならない。

 そうして彼女の心は少しずつ小さく薄くなり、ふとある時から、うまく物事を感じとることが出来なくなったのだった。心が自衛のために、そうしたことだった。

 あまりの痛ましさに広大の顔が歪む。対する梓琳ズーリンの表情は、やはりあまり動かない。


 広大は「俺に触られるとも嫌かろうばってん、凍えたらいかんけん」と、濃紺の布ごと梓琳ズーリンの肩を抱きよせて眠った。梓琳ズーリンは、ただその温みに包まれて久方ぶりに恐怖のない微睡みに落ちたのだった。そこに嫌悪はなかった。



 翌朝、二人は夜が明けやらぬ内に廟を発った。廃村、遺跡と点々とし、三日目に辿り着いたのが名も知れぬ山だった。しかし広大には当てがあるという。以前諜報のための拠点としてたい輿が邑の外に用意した小屋があるのだという。言葉に従い山を登れば、果たして程近い場所に小川の流れるささやかな小屋があった。


 それから二人は、そこで二月近くをその小屋で共に暮らした。


 食をそこまで必要とはしない梓琳ズーリンだったが、広大は丁寧に、質素だが工夫のある食事を作って梓琳ズーリンと分け合った。それが少しずつ、彼女の麻痺していた感情を慰撫していった。


 少しずつ、少しずつ、感情が梓琳ズーリンの中に戻ってくる。

 あたたかい一匙を口に運ぶたび、胸の中にはぽっとぬくもりが増す。暖かな光が彼女に呼吸を思いださせる。そう、身体が呼吸をしている感覚すら、遠い百年だったのだ。


 きんばいの焼け落ちた夜が、その地で二交と暮らした百年が、まるで悪い夢だったように梓琳ズーリンには思えた。

 一月ほどたったころに、漸く梓琳ズーリンは、今現在の自らが置かれている状況について、理解のための咀嚼そしゃくができるようになった。

 客観的に見て、自分達は属する集団に離反した者同士なのだ。梓琳ズーリンはその二交を惨殺した敵兵に連れさらわれたものの、逃げ出せる状況下にあるのにそうしていない。また広大は命令違反を犯した挙句、敵民間人を略取の上、逃亡を図っている。

 逃げ出した夜に彼が梓琳ズーリンに巻きつけた布の色柄の持つ意味――濃紺に金銀を散らしたもの――が、春を売る妓女の棲む妓楼特有のものなのだということを伝えた途端、広大は「ごめん」と顔を歪めて直ちにそれを焚きつけに回した。それは、広大が「えらい美しか布ね」と褒めた直後のことだった。


 夜の寒さを凌ぐための布が減った。


 小屋にあった掛け布の数は足らず、とある冷え込みの厳しい夜をやり過ごすために共寝をしてから、以降そうすることが当たり前になった。

 ある夜、梓琳ズーリンはついに広大に問うた。


「あなたは、どうして、わたくしを助けて下さったのですか」


 すぐ隣に横たわり、同じ掛け布に包まり体温を分け合う男は、ふうと溜息を零すと天井を見上げた。


「俺も正しい人間じゃなか。ばってん、あの命令ば聞き入れてしまったら、俺ン中の神さんに、顔向けできんようになるとがえすか」


 彼は、彼の正義にもとることを行うのは、自身の中にある神に反することだと、そういった。

 それは恐らく、五邑ごゆうの祀る神である白玉はくぎょくに対する信仰心、というものではなかった。もっと根源的な、彼の中にある良心そのものを指していたのだろう。自らの良心と信念に反する行いをすれば、それを行った事実に対して不誠実との審判を下すのは紛れもない自身となる。彼はそれにこれ以上背きたくないと、そう言ったのだった。


 広大の頬に梓琳ズーリンの指先が伸びたのが先だったか、広大の腕が梓琳ズーリンを引きよせたのが先だったか、その真偽を正す意味は、最早どこにもなかったのかも知れぬ。


 ただ、この山小屋から僅かばかり離れた場所で、数多あまたの、両者各々の同胞の死が積み重なっていることを知りながら、二人はその事実に対して、共に目を瞑ったのだった。




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