11.梓琳と広大


         *


 離れの内に踏みこむまでもなく、屋内は薄暗く、また開扉されたとたんにただよい出た香りによって、薄くこうくゆらされているのが南方ナンファンには分かった。簡素な調度ばかりで妓楼らしく飾りとなりそうなものは何一つないが、視線を巡らせて床に落とせば、そこには手縫いと思しき布製の人形と馬が転がっている。


 南方の眉がわずかばかり曇る。さっきの子供のためのものだろうが、それが誰の手によるものなのかまでは、まだ南方には察しがつかない。

 香の合間に漂うのは、紛れもない死臭だった。

 木彫りの衝立ついたての向こうに臥床がしょうがあるのが見える。室内へ進み入った雪蘭シュエランに続き南方も内へと足を踏みいれた。香が更に強く鼻孔をくすぐる。


梓琳ズーリン。起きてる?」


 雪蘭シュエランが衝立の向こう側へ入った。ややあってから顔を出して「来て」と南方を呼ぶ。


「失礼」


 ひと声かけてから衝立の向こうへ南方が入ると、雪蘭シュエランが南方の前へ椅子を引きよせて座るよう促した。それに視線だけくれて、ただゆっくりと頷く。立ったまま臥床に横たわる人を見おろすと、閉ざされていた目蓋がふっと開いた。乾いた唇と、こけた頬。肉の削げて骨と皮ばかりになった腕と指先が、胸の上に置かれていた。ただ敷布の上から床にまでこぼれ落ちた白い髪だけが、変わらず豊かだった。

 は、と吐息と共に、その薄い唇が開かれる。


「久方ぶりです、廂軍様」

「――ルゥー南方ナンファンでいい。廂軍はもう辞して長いんだ」


 そこでようやく腹の決まった南方は、椅子に腰を下ろした。


「久しぶりだな、ファ梓琳ズーリン

「突然お呼び立てしてしまって、申しわけありませんでした」

「そんなことはいい。俺に話があるんだそうだな」

「はい」


 そこで梓琳ズーリンは、空咳を繰り返し、身体を僅かに背けた。雪蘭シュエランがその背に手をかけ、ゆっくりと上体を起こさせる。背中をわずかに斜めにさせて、ようやく落ち着いたらしい。雪蘭シュエランが傍らにおかれていた水を梓琳ズーリンの口にふくませると、ようやく人心地ついたように、深い息を吐いた。口元を覆っていた掌に、僅か赤いものが見え隠れする。南方が認めるが早いか、雪蘭シュエランが手にしていた手拭いでそれを拭き取った。


「失礼致しました」

「いや、気にしなくていい」


 梓琳ズーリンは、そこでふっと微かに笑った。


「あの時も、そう仰っておいででしたね」

「あの時?」

「わたくしを、あの山小屋から、連れて出られた朝です」

「――そうだったか」

「はい」


 こくりと首肯して、梓琳ズーリンはその指先を軽く握り合わせた。


「一晩、考える時間が欲しいとお願いしたわたくしに、貴方様はわかったと、そう仰って下さった。助けに来たのに助けられることを渋るような愚かな雌性を、殴ることもせず、言葉を聞き入れて下さった……」

「それは」

「わたくしには、そういう扱いしか、経験がございませんでしたから」


 繋がれた言葉に、南方は詰まった。梓琳ズーリンは、ふふ、と笑う。


「ご覧の通り、わたくしは、もう長くはありません。あの……あの子のことは、ご覧になられましたか?」


 子のことだろうと察しがつき、「ああ」と首肯する。


「見ての通り、五邑ごゆうの血を引く子です。五歳になったばかりですが、すっかり大きく育ちました。御交の春蕾チュンレイ様には、本当にお助けいただきました。ありがとうございます」

「それは、またあいつに言ってやってくれればいい」


 梓琳ズーリンは、南方に視線を向けると、また僅かに笑った。


「本当に、リョン様もですが、仲睦まじい三交でいらっしゃる」

「――恵まれているとは、思うよ」

「うらやましい。わたくしには、そういう巡り合わせは、与えられませんでした」


 そこで、雪蘭シュエランが南方の肩にそっと手を置いた。


梓琳ズーリン、私は外に出ているから」

「ありがとう。手短にすませるわね」


 雪蘭シュエランが南方に目を向け首肯する。ここで席を外すというならば、最初からそういう手筈になっていたということだ。南方も首肯し、雪蘭シュエランが扉の外へ出てゆくその背を見送った。

 扉が閉まると同時に、南方は改めて椅子の上で姿勢を正した。


「――巡り合わせがなかった、というのは」


 南方の問いに、梓琳ズーリンは頷く。


「わたくしは、らん大州だいしゅう北西部にございます、という県の出身でございます。親共は豪農として知られておりましたが、はくからげつへと朝を移す頃にが白に付いていたため、土地を失いました。一子であるわたくしが雌性二種であったため、支援を約束してくれた交達の下へ参りました。親共の為というよりは、雇い入れていた人達の方便たずきが途切れてしまったのを、なんとかしようというほうが本意でした」


 すでに先の読めた物語に、南方は表情も動かさず、ただ聞いた。


「二人とも苛烈な気性でした。ささやかでも尽くそうと努めましたが、わたくしのやること為すこと全てが気に入らなかったようです。少しでも糸、織物について知ろうと教えを請えば覚えが悪いと殴られました。食事の量はその時々の腹具合に合わなくては蹴られ、あつもの、飯、菜の熱さ温さ冷たさまで、それぞれの口がつく時に好む状態になっていなくては、不出来と土間で朝まで額づけるよう叱られました。交達の都合で遅れて冷めても、合わせねばなりませんでした。閨でも求めに間に合わなければ、ひどく打ち据えられました。二人がかりで行われるもので、いつしかわたくしは、物を考えるということが、うまくできなくなってしまいました。――そんなときに、」


 ふ、と。

 漂う香が、強くなったような、そんな気が、南方には、した。


「そう、あの夜も、首を絞められて、朦朧もうろうとしていた時に、わたくしの胸の上に、ずしりと、落ちたのです」

「――落ちた、とは」

「首です」


 それまで精気のなかった梓琳ズーリンの眼に、ちらと光が浮かんだ。


チャンショウの、首が、わたくしの胸の上に落ちて、それから転がって、寝台の下にごろりと行って、見えなくなりました。それで漸く、割けても突き上げるのを止めてくれなかったのが止まりました。それから、悲鳴が上がっているのに気付きました。頭上の、関天クワンティエンが上げていたものでした。視界がかすんでよく見えていなかった中で、白い布のような何かが過りました。次の瞬間、そこに赤いものが飛んで、わたくしも、それを浴びました。目に痛みが起きて、その赤いものが目に入ったのだと気付きました。首を絞めていた関天の手から力が抜けて、やっと息ができて咳き込みました」


 どれほど凄惨な状況だったのか、それだけで十分に分かる。南方は、知れぬように奥歯を噛み締めた。目の前の梓琳ズーリンは、ただただ懐かしそうに双眸を細めていた。


「すすり泣く声が聞こえました。はじめ、自分が上げているものを、そうだと気付かずに聞いたのかとも思いましたが、違いました。熱い指先が、わたくしの目許を拭いました。それから、濡らされた布のようなもので、さらに拭かれて、視界がはっきりしました。目の前にいたのは、黒い髪に、黒い目をした、はじめて見る五邑ごゆうの雄性でした。彼は――泣きながら、わたくしに敷布を巻いて、抱きしめたのです。そして、こう言いました」


 梓琳ズーリンの両手が、記憶を辿るように、自らの身体をゆっくりと抱きしめる。


「こんな――」



 ――こんなむごいことを、赦されてたまるか。やらされて堪るか。



「ちくしょう、畜生――そう言って、彼は、こうだいは、わたくしのために、泣いてくれたのです」




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